日本のどこかに
シルバーウィークは明日まで。
老人保健施設で暮らしている母の状態は落ち着いているので、泊まりがけでどこかへいっても構わないのだが、なんとなく、自宅を離れられずにいる。
鎖国女といわれながらも、パスポートは一昨年取得済みだから、海外だっていける。
月が変わってなにごともなく2週間、1か月過ぎたあとには、ああ、いっても大丈夫だったなあ、と思う。
後悔しないように、いきたいときにいきたいところへいけばいい。
そういう言葉にもうなづけるが、なにかあって、すぐに連絡が取れなかった、すぐにいけなかった、という後悔をするかも知れない、とも思う。
そういう自分だったら、無理をすることはないのだろう。
いきたいときにいきたいところへいく、が「したいこと」でないのならば。
わたしのしたいことは、しばらくはこうして、なんとなく、遠出しないでいることならば。
ただその一方で、母の死を待つような過ごしかたはしたくない、と思う。
だからわたしは好きなようにするの、どこにでもいくの、という振り切る方向ではなくて、これもなんとなく、わたしの生活は楽しんでいて、毎日幸せに眠りにつく、というありようで。
だけど、とキリがないのだけれど、こうして考えているとせつなくなってくる。
どう繕っても、母の死を包括して前を見なければならないことが。
一泊だけ、どこかへいってこようかな。
秋のディスカバージャパン、で。
Daisy
毎日着けている指輪がある。
デイジーを象った銀製で花芯はゴールド、茎を指に巻きつけたようになっている。
花がかわいらしかったのもさることながら、茎が自然に波うっているところが気に入った。
デイジーは花占いの花。
愛してる、愛してない、愛してる...
花びらを一枚づつむしっていくのは酷ではあるけれど。
この指輪を買う前に、わたしは花びらの数を数えた。
一か所で花びらと花びらが少しだけ離れているから数えやすい。
愛してる、愛してない、愛してる、愛してない...
愛してる、で終わった、15枚。
安心して買うことができた。
指輪を褒められたときにこの話をすると、目を輝かせたりなかには潤ませたりする人がいる一方で、だああっと脱力してしまう人がいる。
前者とだけおともだちになりたいものだが、すでに親しい人のなかに脱力派がけっこういるので、わたしのほうががっかりである。
小ゑんちゃん
昨夜思いがけず、昭和56年の立川談志師匠のラジオ放送の音源を聴いた。
素顔の師匠によく会っていた頃の声だったから、聴くなり涙がぶわっと出た。
高座は芸の域だが、ラジオはプライベートの会話と変わらない。
いつも心のなかでイメージしている師匠の声としゃべりかたより若くて、いたずらっけを通り越し、かなりワルの感じ。
でも、こうよ、これが師匠よ、とまたおいおい泣くのであった。
聴きおわって、ゆくりなく、師匠とわたしの母との出会いのことを思い出していた。
母は20代の半ば、大井町のグランドキャバレーにホステスとして勤め、一家三人の生計を支えていた。
当時は社交ダンスがブーム。
そのキャバレーには毎晩生バンドが入り、フロアも広かった。
ダンス講師の経験のある母はダンスで指名を取っていたのだそうだ。
そこをいわゆる営業で訪れたのが、小ゑんこと二つ目時代の談志師匠。
当時二十歳そこそこ。
若くて生意気で噺がうまく、大人気。
営業ではタキシードを着て漫談をしていて、母が会ったときもその姿だった。
満員のお客を大笑いさせて出番を終えた「小ゑんちゃん」はトイレにいった。
これも母の説明では、キャバレーのお客はトイレにいくと「里心がつく」。
つまり、トイレにいる間に、家のことを思い出して「そろそろ帰らなくちゃ」と思うのだとか。
だから、ホステスは必ず外で待っていて、出てきたお客におしぼりを手渡すことになっていた。
にっこり笑顔で里心を忘れさせ、また席につかせて飲ませるというわけだ。
母は小ゑんちゃんをトイレの外で待った。
それはホステスとしての習慣でもあったし、人気者をそばで見たいという母のミーハー心でもあっただろう。
出てきた彼は、母が差し出すおしぼりを見ると「よせやい」と照れた。
そして真顔になって「俺にはそんなことしなくていいんだよ」といったのだそうだ。
小ゑんちゃんは、ホステスと芸人の自分を同じ側の人間として見ていたのだと思う。
わたしが知る談志師匠もそういう人だった。
周りの誰にも同じように優しい表情を見せていた。
母が出会ってから20年。
わたしが師匠のファンになり、手紙を書いて、返事をもらい、遊びにおいでと書いてあったのをまっすぐに受けて新宿末広亭の楽屋を訪ねたとき。
師匠はタキシードの上着を脱いで鏡の前に胡座をかいていた。
白のサテンのフリルシャツにブルーのカマーベルト、オフホワイトのスラックス。
その姿は、母がキャバレーで会話したときの師匠と同じだったのではないかと気づいたのは、ずっと後のことだった。
座高問題 part 2
今週の初め、映画を観にいったときのことだ。
プレミアム会員というのをもう何年も続けている立川の映画館。
インターネットで予約した座席についたら、前のおにいさんの座高が高く、かつ毛量が多く、スクリーンの中央下方にスタンダードプードルの頭部のような影が。
近年には珍しいもろかぶり、だった。
後ろをそっと振り返ってみると、わたしと変わらない体格の女性。
これでは座席に正座作戦は使えない。
彼女が見えなくなってしまうからだ。
「NO MORE 映画泥棒」を見ながら、わたし自身の座高をめいっぱい伸ばして、プードルの影をしのぐ体勢を模索する。
(ところで、映画泥棒を目撃したり自室でダウンロード泥棒したりしているポップコーン君は共食いどころか我食いをしているが、あの映像は12歳以下が一人で見てもいいものなのか)
本編が始まってからも、座ったままの背伸びを何度もし直すのだが、プードルの影は完全には越えられない。
気にしないようにと思っても、髪の毛の一本一本まで見えてしまうのがつらい。
映画を観ているのか、影と戦っているのかわからなくなってきて、もうなにもかも嫌になりそうだった。
そのとき、わたしの左隣のおにいさんが、にわかに前に身を乗りだした。
どしたの、なにか見づらいものがあった、と聞きはしないけど思っていたら、元に戻った。
と思ったらまた身じろぎ。
そしてなにかを決意したように、彼は立って出ていった。
お手洗いだったのか、としばらく待っていたが、帰ってこない。
深刻なお手洗いかな。
出入りする人は他にもいて、前の扉から二人入ってきたが、隣には誰もこなかった。
うーん、でもね。
わたしは思った。
買ったチケットと違う席に座るのはマナーとしてどんなものだろうか。
しかし映画はどんどん進む。
彼が立っていってから15分は経っているように感じた。
ええい、替わっちゃえ。
帰ってきたら謝るまでのことだ。
神様がくれたラッキーを受け取らなかったら、神様がっかりするだろう。
わたしはすばやくおしりを浮かせ、肘掛けを前方向にビヨンドして左の席にずれた。
はたして、プードルの影は、右の遠くに去った。
一つ違うだけで、視野は全く異なる。
さっきまでの厭世観は一瞬にして消え去った。
そして映画は終わった。
明るくなり、立ち上がると足元にはおにいさんのバッグがそのまま。
どこか後ろのほうで観ていたのだろうか。
ごめんね、そしてありがとう。
体には気をつけてね。
前世
夢夢した乙女話と思って読んで欲しいのだけど。
前世なんてものを考えていたことがある。
修道士や修道院になぜだかとても惹かれていたからだ。
最初は、息子がおなかにいたとき。
カトリック系の病院の産科に検診に通っていた。
すでに秋も深かったと思う。
玄関を入ってすぐの新患受付に、すらっとした、異装の男性がいた。
どきっとして、よく見ると、フードのついた麻の修道服に縄のベルト。
静かな佇まいで、書類に記入している。
素敵。
どきっ、は、どきどき、に変わって、わたしは後ろをそーっと通って外来に向かった。
数年後、ビデオで「ブラザーサン・シスタームーン」を見たとき、その修道服が聖フランチェスコ会のものであることを知った。
さらに数年後「薔薇の名前」を同じくビデオで見て、ショーン・コネリーの聖フランチェスコ会修道士姿にまた衝撃を受ける。
「天使にラブソングを」の神父や修道士たちも聖フランチェスコ会。
もうこれは引き寄せているとしか思えない。
アッシジの写真を見ると懐かしかった。
わたしもきっとここにいたんだわ、と確信するほどだった。
とくに、修道院の窓や扉の写真がとても好きだった。
現世のわたしは、ストイックな生活はとても無理な怠け者なのだが、前世では喜びとともに修道院生活を送っていたような気がする。
「薔薇の名前」にも出てくるような、聖書を写本する仕事をしていたのではないかとも思った。
カリグラフィーは習うほど好きだったし、古い手書き文字を見るとうっとりする。
2年ほど前に「神と男たち」をDVDで見た。
修道士の映画だからという不純な動機だったのだが、信仰について、戦争について、自分と他者の命について、底の底まで考えることになった。
痛切で、もう一度は見られない。
しかし、そんななかでも、修道士が着ていた手編みでフードつきの黒のベストが忘れられず、いつか作ってみたいなどと考えている。
修道院では編み物も担当していたのだろうか。
現世でもよくしているものの一つだ。
シスターの服にはまったく憧れないというのも我ながらおかしい。
修道士に恋をした村の娘だったのかも知れない。
石造りの橋の上ですれ違うときにしぬほどどきどきしていたのではないかと思う。
ゼリーのつくりかた
抽象的なことをよく考えている。
言葉を遣う上で、もっとも面白いのが、抽象的なことをどこまで伝えられるかというチャレンジだ。
自分のなかで、その抽象的なことが、確かに形になっていることが大前提だ。
たとえていうと、ゼリーを作っているときのような感じ。
ジュースにふやかしたゼラチンを混ぜてゼリー液を作って、型に流し込んで、冷蔵庫に入れて、固まったら型を逆さまにしてお皿に出す。
そのときに、ジュースの色がきれいに出ていて透明感があり、型のへこみがカーブになって表面がつやつやしているように。
お皿を動かすとふるふるするけれど、ゼリーは溶けずに、形を保っている。
そういう状態の抽象的な考えを、濁らせることなく、崩すことなく、匂いや味を損なうことなく、言葉に表して、聞く人、読む人の内側に、オリジナルにできるだけ近いゼリーダッシュを出現させる。
会話でなら、どのくらい近いゼリーを伝えられたかが、だいたいわかるのがうれしい。
文章だと確かめるすべはないが、言葉を尽くしていく過程に、わたし自身がここにこうしていることのリアリティを感じてもらえたら本望だ。
言葉にはなまじ意味があるからもどかしい、と感じることがある。
言葉には意味があるから、絵の具のようには塗れない。
楽器のようには奏でられない。
どうにもこうにも心のなかでふるふるしているこのゼリーを、このまま見せられたらいいのに。
もどかしくもせつない涙を唇の端に受けとめて、そのしょっぱさを頼りに、また言葉を探すのだ。
意味のある言葉だけが、わたしの使える絵の具であり、わたしのはじける弦だから。
日比谷三昧
この一月で、日比谷に6回通った。
まずは娘と東京宝塚劇場へ。
その二日後、日比谷シャンテにあるドレス店に娘の成人式のドレスをわたし一人で買いにいく(娘本人は観劇した日に試着済み)。
12日後、友人とシャンテ近くの喫茶店で会う。
その週末、思いがけずもう一度同じ宝塚公演を観られることになった。
1週間後、別の友人と上の喫茶店で会う。
そして今週水曜日、再び娘と宝塚劇場へ。
もう、日比谷に引き寄せられるなんてものじゃない。
日比谷に引っ越したほどの勢いだった。
娘との宝塚観劇二回はそれぞれ3か月くらい前に決まっていたものだが、間に4回、つぎつぎに詰まっていったのだ。
この水曜日6回めに、有楽町駅の日比谷口から出て、スバル座のあるビルのほうへ信号を渡るとき、引っ越しの冗談ではなく、本気で家に帰ってきたような安らぎを感じた。
観劇もそのあとのお茶もつつがなく終えて、国立の部屋に戻ってベッドの上で、一日に見た風景を思い起こしていると、目に入ったなにもかもが鮮明に見えてくるのだった。
スバル座の看板のポスターに載せられた山之内豊の無精髭までも。
さらに見えてなかった部分まですっかり頭のなかに描ける。
入らなかったコーヒーショップやコンビニの店内すら。
日比谷劇場街の一帯が、わたしのジオラマになってしまったのだ。
そこにあるものは、心のなかではすべてがわたしのもの。
東京宝塚劇場のショップのブロマイドだって1枚残らず。
非常に、心楽しい。