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羽生千夜一夜 

羽生さくる 連続ブログエッセイ

毛糸の国のアリス

編み物の季節がやってきた。

毛糸の手触りに心が安らぐ。


母に初めてかぎ針編みを教わったのは、小学校5年生のときだった。

不思議の国のアリス」のアリスを編みぐるみで作った。

最初からずいぶん難しい作品に挑んだものだ。


肌色の毛糸で顔とボディを編み、青の毛糸でワンピースを編んだ。

髪は黄色。

白いフェルトに瞳を刺繍して目にし、鼻は小さい玉を肌色で編んだ。

口は赤い毛糸で刺繍。


かなり散らかった印象の顔つきになったが、それがまたかわいらしかった。

長いこと本棚に飾っておいたが、実家を出たあたりでなくしてしまった。

もしかするといまも母の家のどこかにあるかも知れない。


アリスの後は動物の編みぐるみをたくさん作った。

なかでも、グリーンの濃淡の縞模様のしっぽを持ったアライグマは愛嬌のあるやつだったと覚えている。


人形やぬいぐるみが好きだったから、編み物で自分で作れるのはとても楽しかった。


編みぐるみの最初は、毛糸で輪を作り、そこにたいていは6目細編みを編みいれて、輪を引き締める。

6目の小さな丸ができる。

2段めは6目のそれぞれに2目ずつ編みいれて12目にする。

3段めは1目置きに2目ずつ編むから18目になる。

4段めは2目置き、5段めは3目置き…


そんなふうに増やしていくとしだいに半球に近づいていく。

望みの大きさになったら増やすのを止めて前の段と同じ目数に編む。

そのまま数段編んで、今度は減らしていく。

増やした過程を逆にたどるのだ。

最後の段、6目になったら綿を入れて引き絞る。


これでボール型のできあがり。

人形やテディベアの頭になる。


この編みかたで、帽子を作ることもできる。

半球まで編んでかぶれば、あったかい。


去年は半球にポンポンを二つつけてクマさん帽子まで作ってしまった。

かぶる人を編みぐるみにする計画である。


ここ数年は棒針の凝った模様編みにも挑戦している。

かぎ針も棒針もどちらも楽しい。

そろそろ編みぐるみにも復帰したくなってきた。



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ほんとうの…

歌詞でも詩でもコピーでも雑誌の特集タイトルでも、散文だったとしても、そこに「ほんとうの」という言葉が見えると、わたしは白けてしまう。


「ほんとうの」それ以外は「うその」なの、と反抗的な態度を取りたくなるのだ。


「ほんとうの優しさ」「ほんとうの人生」「ほんとうの恋」「ほんとうの愛」「ほんとうの時間」「ほんとうの幸せ」…


きりがない。


「ほんとうの」それを探したり見つけたりつかんだりすることが「ほんとうに」生きるということなのよ、なんていわれた日には家出しますよ、これからでも。


自分のなかにいまあるものがすべてであり、すべてはいま自分のなかにあるのだ。

言葉遊びのようだけれど。


ほんとうやうその区別はなくて、たとえば愛はたとえ一雫でも大海とつながっている。

全体と分かちがたい部分としてのわたしたちが、たとえば愛の真贋を問うなんて、ナンセンスなのだよ。


ほんとうかほんとうじゃないかなんてケチなことはいわないで、ただ、愛したらいいのよ。


…でもねえ。

これも「ほんとうだのうそだのいわないことが『ほんとう』だ」といってることになるのかしら。


わたしがわたしの思うことを実践するならば「ほんとうの」連呼の歌も普通に聴けるということかしら。


でもやっぱり、反射的にむっとしてしまうのよね。

「ほんとうの」が聴こえてくると。

単純にいって、安易な気がして。



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添削の秘密

友人に挨拶の文章を見て欲しいという依頼を受けた。
光栄なことと引き受ける。

仕事として添削をするときにもそうなのだけれど、こう書いてみたらよりわかりやすいのではないだろうかというアイデアの出処が自分でも不思議だ。

ただ、それがよいと思う、と言葉のほうから出てくる。
「思って」いるのはわたしではなくて言葉だ。

自分が文章を書くときにはほとんど意識下で言葉を選んでいて、それが出てくるから手で追って書いているのだが、他の人が書いた文章を検討するときにも、半ば自分の「頭」は使っていないようなのだ。

言葉には自分自身のすんなりした姿がわかっているから、そのまま出ていきたい。
「頭」が考えてそれを邪魔するとスタイルにどこか節のようなものができてしまう。
ほんとにやめて欲しいのよね、と言葉はいっている。

書いている人がたとえば友人ならば、その人自身のすっきりした様子を思いながら読む。
わたしの言葉がすんなりする加減とその人のは違うから、その違いかたを意識する。
そうすると、言葉のほうから、こう出ていきたい、という声が上がってくるのだ。

その声を聞き取って、本人に提案してみる。
気に入ったら採用してね、という形で。
仕事の添削でもそれは変わらない。

なぜ、この提案をするかの説明もつけるが、それはじつは後付けのようなもので、説明してみて、ああ、言葉はこう考えていたのか、とわたし自身も思ったりする。

こういうことを書こう、と発想するのはこのわたしだから、と強いこともいってみるが、それも言葉が出ていきたいからわたしにそう錯覚させているのかも知れない。

つまり、言葉は言葉それ自身であって、誰のものでもない。
だからこそ、書いた人と読む人を結びつけるのだ。

添削も、自分の文章も、またインタビューして書き起こす談話も、わたしにとっては変わらない。
わたしは、いわば映写機であり、映写技師のようなものだ。
言葉のすらりとした姿を写しだすことが、いちばんの喜びである。



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微笑みの色

大学生のときに参加していたミニコミ誌に書いたエッセイの一つに、口紅の話があった。

 

デパートの化粧品売り場へ、新色の口紅を見にいった。

ウインドウに近づくと、自分の顔が映った。

唇を微笑みの形にして、そこを離れた。

 

昔のわたしは慎みふかかったものだ。

口紅の新しい色より、微笑みのほうに価値があることを知っていた。

 

こどもたちが二人とも小学生になったころから、わたしはメイクに凝りはじめた。

それまでの10年間は、育児という大仕事でいっぱいいっぱいで、自分の女性らしさを顧みることがなかった。

 

下の子が生まれてしばらくして、疲れて落ち込んでしまい、産科の医師に相談したら、もっと綺麗な服を着て、お洒落を楽しんでごらんなさいと助言された。

そのとき着ていたのはトレーナー。

好きだったDCブランドのもので、お洒落をしていないつもりはなかったのだけれど、先生から見たらくたびれた感じだったのだろう。

それでも、育児のただなかでは、お洒落も、メイクもしている余裕はないし、こどもたちと肌で接しているから、ファンデーションや口紅が口に入ってはいけない、などと気にしてもいたのだ。

 

そこから一気にメイクマニアに。

13年前のことだ。

持てる情熱のすべてをかけて、といってもいいほど、メイクとスキンケアに打ち込んだ。

自分のなかの「女性」が彷徨していたともいえる。

「男性」との関係において、もっと掘り下げると「父親」との関係において、自分の価値がわからなくなっていた。

 

そういう影の部分はともかくとして、メイクやスキンケアは理屈ぬきに楽しくもあった。

年齢はかさんでいくが、綺麗になるということにタイムリミットはない。

手を掛ければ掛けただけ「清潔」という意味でも綺麗になれるものだ。

 

なかでも焦点は、やはり口紅だった。

肌と唇が互いに映えて、生命感のある色を求めた。

できれば淡いピンクか透明感のあるローズで、女性らしいかわいらしさを加えたかった。

 

しかし、決め手だけに難しい。

口紅は回転の早いものでもあるから、イメージ通りの色を探そうにも目まぐるしい。

やっきにならず、いつも少し似合わない色をつけてそのこと自体を楽しもうかとも思った。

 

その矢先。

「DREAM」という名前の口紅を知った。

コーラル系のベージュで艶がある。

美容部員さんの見立てがうまく、肌色との明度の差が望み通りだった。

自分がずっとピンクで表したかったものが、ベージュで表現できている。

そして、なによりも、微笑みに似合っていた。

 

少しして、チークも彼女に頼んで厳密に選んでもらった。

これもベージュで、ただ、なかに澄んだローズが忍ばせてあるのだとか。

「DREAM」と優しく調和する。

 

これ以上もう、なにも足さなくてもいい。

そう思える。

13年間、自分に見つけたかったのは、この表情だ。

飾らなくていい、際立たなくてもいい。

ただ、心を映して微笑んでいたい。

 

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007ダニエル・クレイグはなぜ憎めないのか

もともと好きだから、憎む必要はないのだけれど、現ジェームズ・ボンドダニエル・クレイグはいつ見ても憎めない顔だと思う。

 

理由はうすうすわかっていた。

意識下ではわかっていたけれど、自我が認めたがらなかった。

しかし、先日新作「スペクター」を鑑賞するに至り、ついに閾は破られた。

 

ダニエル・クレイグが憎めないのは、鼻の下に「ハタ坊線」があるからだ。

 

天才・赤塚不二夫描く「ハタ坊」をご存じだろうか。

名前の由来は頭の上の旗だけれど、わたしがいうのは彼の鼻の下、すなわち「人中」の二本の線のことである。

 

われらがダニエルは西洋人だけあって、それが非常にくっきりしている。

シーンによってはそこが光を反射して白く立体的に、まるで短く折った割箸を鼻の穴に入れて口でくわえているようにさえ見える。

ハタ坊を通り越して「どじょうすくい」なのだ。

 

トム・フォードの、これ以上フィットしたら肌に埋もれるのではないかというほどぴったりした仕立てのスーツで、高くそびえた塀の上を走るときも、年増の未亡人を壁に押しつけて自己紹介しているときも、列車で殺し屋と激闘するときも、鼻の下には「ハタ坊線」極まって「どじょうすくいの割箸」。

 

これが憎めるものなら憎みたい、けっして憎めない。

 

ダニエルが007を演じる次回作は、あるのかないのか、まだわからないけれど、わたしとしては、たとえ退職しても「J」とかいう役で出て欲しい。

どうか「ハタ坊線」を見せつづけて欲しい、あのシリーズのなかで。

 

 

 

 

 

 

職人さんはゆっくり歩く 2 大工さんのまなざし

息子のまなざし」というフランス・スイス映画の主人公は大工さんで、目で見ただけでそこの長さをぴったり計るという技能を持っている。

目分量というのは調味料の場合だと「適当」のいいかえだったりするが、こんな大工さんなら目分量がジャストなのだから、すばらしい。

 

わたしが品川で知っていた大工さんも、この主人公に通じるものを持っていた。

父は家のなかをいじるのが好きだった。

和室の窓の下に戸棚を作り付けにして、その上に骨董のランプを飾りたいなどといっては、内装屋さんが主な仕事になっている畳屋さんを呼ぶ。

畳屋さんと組んでいるのがこの大工さんで、彼がまたしばらく家に入ること

になる。

 

大工さんはもの静かで、いつもじっとなにかを考えている様子だった。

笑顔は優しくてしみ通るようで、口より先に目で話しだす感じ。

目だけで済んでしまうこともあった。

 

家といってもマンションだから、和室で作業しているときには家じゅうが工事のようになる。

リビングルームに材木が何本も置かれ、わたしは学校から帰ってくると、それを避けて部屋に入らなければならない。

大工さんは、優しいまなざしで「お帰りなさい」といって、材木を手早く動かしてくれた。

 

母は大工さんの身の上を聞いていた。

妹と養護施設で育ち、中学を出てから工務店で住み込みで働いた。

妹が中学を出て養護施設を出ると引き取っていっしょに暮らし、高校に通わせた。

自分も定時制高校に通って卒業した。

苦労した上に妹思いで勉強熱心だった、ということで母は大工さんにすっかりシンパシーを寄せていた。

 

三時のときにわたしも家にいると、リビングルームで大工さんと内装屋さんの若い子と母とでお茶を飲んだ。

とくになにを話したというわけでもないのだけれど、心の温まる時間だった。

 

わたしに優しくしてくれるのは、妹さんを思い出しているのだろうな、と思っていた。

妹さんや妹さんのこどもたちのことを話すときにとてもうれしそうだったから。

まなざしは優しいだけでなく知性的で、瞳の奥が深かった。

 

いつか、家の近くの横断歩道を渡ったら、止まっている車が大工さんのハイエースだった。

彼は窓から腕と顔を出して、いつものまなざしで、にっこり笑った。

わたしも手を振って、にこにこして渡っていった。

 

「見ればわかる」という人がいる。

正直にいえば、わたしもある種「見ればわかる」タイプの人間だと思う。

もちろん、わかりかたは自分のレベルでしかないのだけれど。

 

大工さんを始めとして、職人さんは観察する人たちである。

見て、手を入れて、また見て、手を入れる、を繰り返す。

そうするうちに、見ることのなかに自分が入りこむ。

長さをいい当てられるのは、そこで自分が実際に「計って」いるからだ。

 

まなざしがその人自身なのだ。

それを知って見返す者がいたら、相互の理解が生まれる。

わたしは高校生から大学生のあいだ、幼い形ではあったけれど、大工さんと理解しあえたと思う。

苦労しても、悩むことがあっても、彼のように、微笑んで人を見つめられる人でありたい。

 

 

 

職人さんはゆっくり歩く 1

お昼前後に街に出ていると、職人さんが二三人連れ立って、お昼御飯を食べにいくかお店から出てきたかしたところに遭遇する。

「ワークマン」スタイルの彼らは、のんびりした表情で、きまってゆっくり、ゆったりと歩いている。

その様子を見ると、わたしはわけもなく楽しくなってしまうのだ。

 

たとえていうならば、男の人が空港にいて、勤務の明けたフライトアテンダントさんが数人、キャリーバッグを引いてやってくるところを見かけたような気分...かな...

 

お昼の休み時間は街にもどこかのどかな空気が流れていて、ゆっくり歩く職人さんたちは、その流れの速度とゆらぎにぴったり合っている。

現場は近くてまだ時間に余裕はあるから、急ぐ必要もない。

 

職人さんたちは、おしなべて重心が低い。

地面に足が着いている。

歩くときも後ろ足の踵に重さが残ってゆったりするのだ。

それも男らしくてかっこいい。

 

これまでにも何回か書いてきたけれど、職人さんの思い出を少し続けて書いてみようと思う。

最初は品川の大工さんから。

お楽しみに。