羽生千夜一夜 

羽生さくる 連続ブログエッセイ

前後左右上下

ある男性が、外国人のともだちに、きみの国の言葉では「前後、左右、上下」はどういうんだい、と聞いたときのお話。

ともだちは「マエウシロヒダリミギウエシタッ」とでもいうように、それらの言葉をひと並べに早口で教えてくれたのだとか。

いちおう身振りは入れながらだったけど、そんなのいっぺんに覚えられない。

 

わたしだっても当然覚えられない。

英語ですらそうすらすらとは出てこないだろう。

でもこの話を聞いて、わたしは別方向にいろいろと考えた。

外国語習得の問題ではなくて、自分にとってのまさしく方向というものを。

 

方向音痴なのは小学校2年のときに、方位を勉強する日に学校を休んだからに相違ないが、前後左右上下、ならば、左右でちょっとまごつくくらいだ。

鏡で逆なのは左右ではなくて前後である、なんていう話は大好き。

そうよねえ、前後が逆でなかったら鏡を見たら後ろ姿が映ってしまうもの。

鏡の国に飛び込むときは前に飛び込んでいるようでいて、じつは後ろに飛び込んでいるのね。

こういうおしゃべりはいくらでも続けられる。

文科系特有の思い込み科学。

 

それよりもう少し真面目に。

自分の前後左右上下は、生まれてこのかた一度も変わっていない。

最初に意識したのは、前後だったろうか、左右だったか、上下か。

母がいるほう、おっぱいのあるほう、だから前かな。

生後30日くらいで布団に寝かされていて、頭の上のほうから射してくる日の光に顔を向けている写真がある。

 

寝ているときには自分の「上」は写真で見ると「左」だったりするが、やはりそれは自分には「上」だ。

自分の前後左右上下は、姿勢や体の向きとは関係がない。

自分にとってゆるぎない「方向」なのだ。

それはわたしが体のなかにあって意識を持っている限り続くもの。

 

では、それを「指差す」ときの中心点はどこだろう。

自分のなかのどこから見て「前後左右上下」を指し示しているのだろう。

目を閉じて、探ってみる。

脳のまんなか、ではない。

眉間でもないし、喉でもない。

(チャクラで見ている感じだな)

おなかより下でもなさそうだ。

腕が生えている高さよりちょっと下、の真ん中。

心臓みたいだ。

ハートね。

 

感じてみたらわかった。

眉間あたりでも判断できるのだけれど、これは地図を見るときに使う場所でたいていまちがう。

方向音痴の宿る「チャクラ」みたいだ。

地図を見るときにもハートで読むと正しい道をゆけるかも知れない。

象徴的だなあ。

 

そしてこの中心点から見た方向は、すべてが同時に存在する。

前後左右上下の矢印を無数にずらして点でぎっしり、内側から球が描ける。

実際には点(矢印の断面)には面積がないから方向は無限だ。

無限の方向が同時にいちどきに存在する。

 

ここで、思い出してください、外国人のともだちの方向の教えかたを。

「マエウシロヒダリミギウエシタッ」はどこまで早口にいってもいい。

それらは同時にあるものだから。

できることなら「ウォッ」と重ねて一音ですべての方向を表したいくらいだ。

その「ウォッ」は、人が内側から描く球を示している。

 

レオナルド・ダ・ヴィンチの描いた円のなかの人体図。

あれには正方形も重なっていて、わたしがイメージしていることとは意味が違うのだけれど、あの男性を三次元に表したとしたら、球に包まれているようにならないだろうか。

 

人の存在は、球なのだ。

見かけのでこぼこ、老若男女を拭いさってみたら、ハートから無数の方向を指し示してその照射で内側から球を描いているのが人というもの、みな等しなみに。

 

なんだかあさっての方角に進んでしまった。

そして、この人の球は、天球と同心だというのが結論なのだけれど、きょうはもうこれ以上書けません、頭つかれた。