羽生千夜一夜 

羽生さくる 連続ブログエッセイ

木片

外堀通りの舗道を、小学生だった娘といっしょに、新橋のほうから数寄屋橋に向かって歩いていたときのこと。

 

前髪のあたりに「しゅっ」という気配を感じて、わたしは反射的に腰を引いた。

その刹那、半歩先に木片が落ちてきた。

板チョコを横に二枚並べたくらいの大きさで、色も乾いたチョコレートのようだった。

ぱしーん、という音がして、あたりに細かいかけらが散るのがスローモーションのように見えていた。

 

気配がしたのは、落ちてくるより少し前だったと思う。

わたしは腰を引いたまま、しばらく木片を見つめた。

娘が「ママ!」と呼ぶ。

わたしは、はははっと笑って木片をまたいだ。

工事現場の警備の人が近づいてきた。

「大丈夫ですから」といって、わたしはそのまま娘とその場を離れた。

 

あとである人にいわれた。

そこでちゃんと話してこなくちゃだめだよ。

誰と。

現場の人と。

だって、当たらなかったよ。

当たらなくても、ショックだったろう。

 

ショックだったのは娘のほうで、しばらくは、その直後に寄った洋菓子店の包み紙を見るとどきどきしたそうだ。

 

わたしにはわかっていた。

こどものころに、自分は何歳まで生きるだろうと考えたときに、ふと浮かんだ数字と、そのときの年齢が同じだった。

あの木片をまたいだときに、その数字を越えたのだ。

 

そこから遠ざかりながら振り向いて上のほうを見た。

現場では古いビルの外壁を剥がしていた。

下の階には受け止めるような角度で板が張られていて、ネットもかぶさっていた。

わたしの前に落ちてきた木片は、思いも寄らない方向に跳ねたものなのだろう。

 

前髪で感じた気配がわたしを守ってくれた。

またいだ最初の一歩から、わたしは新しく歩きはじめた。

時が経つにつれ、その思いが強まる。