参った魚は目でわかる
現在は認知症で、意味の通る会話がほとんどできなくなっている母。
かつての母は、冗談でしか話をしない人だった。
まともなままで会話が終わることは皆無。
こちらはつねに頭を回転させて聞いていなければならない。
家にいるのに、疲れたからもう帰りたいです、と訴えたこともたびたび。
両親とも麻雀が好きだった。
父は大陸仕込み、母は新橋一麻雀のうまい芸者さんに教わったというのがそれぞれ自慢。
そのせいなのか父はやたらと長考し、母は打ちながらシャレや地口や変なことわざばかりいう。
わたしは、象牙の牌を混ぜるごろごろいう重い音と、母の言葉を聞きながら、こたつの角に足を入れて寝てしまうのがつねだった。
麻雀のゲームの最初には、親がさいころを振って、それぞれの前に二段に積んだ牌の山のどこから取り始めるかを決める。
その後取るときの母のかけ声は「さんざん苦労して振り込む」。
三ブロックづつ取るからだった。
誰かが当たるのではないかとためらいながら捨てた牌が見当外れだったときには、「そこがしろとの赤坂見附」といった。
この言葉の意味はずいぶん後になるまでわからなかった。
「そこが素人の浅はかさ」のシャレだったのだ。
「浅はかさを見つけた」という意味も入っているのかも知れないと思っていたがどうだろう。
その言葉をいうタイミングと動作もシャレの一部になっていた。
たとえば「参った魚は目でわかる」は、「参った」といいながら牌をツモってきて「魚は」で手首を返して牌を立て「目で」といってトン、とマットに弾ませて「わかる」で切る。
つまり、さっきからツモが悪い、ツモってもそれをそのまま捨てなければならない、自分はもはや「参った魚」だというわけだ。
つもった牌が待っていたものなら「魚は」でその言葉は中断。
ほーほほー、と喜んだあとで「きたかちょうさん待ってたほい」という。
わたしはこうして、将来麻雀小説でも書くのでなければ役に立たないような言葉やタイミングばかり覚えて大きくなった。
でも、そんな語彙を持っていてよかったと思えたこともある。
阿佐田哲也の『麻雀放浪記』を読んだときと、和田誠によって映画化されたものを観たときだ。
この世界は知っている、わたしも棲んでいたから、と感激したものだ。
母に教わったことといえば、家事ではなく、女性としての生きかたでもなく、玄人めいた粋の感覚だった。
中学校以降で受けた教育とはギャップがありすぎて、いまとなっては笑ってしまうしかない。