空はへこんでる
あるとき突然に気がついた。
空ってへこんでる。
わたしの住まいに帰る道は少し上り坂になっている。
左右に駐車場があり、その周りは二階建てか低層のマンション。
空がぐるっと見渡せる。
夏の昼間の入道雲も、冬の冴えた星々も、大きな視界で捉えられる。
そのなかで気づいたのだ。
いま見ている一点が、わたしからいちばん遠いということに。
そして、その一点がもっともへこんでいて、そこから空は半球になりながら広がって、わたしを包み込んでいる。
一度へこんで見えたら、もうどこに目を移しても、そこがいちばんへこんで見える。
そして、そのもっとも遠い点をわたしがつながっていることを感じる。
つなげているのはわたしの視線であり、点からの視線でもある。
もしも絵が描けるなら、へこんだ空を描きたい。
でも、空をへこませるためには一点を見つめていなければならない。
とすると、周りの風景はどうやって描いたらいいのだろうか。
風景のスケッチをした経験では、あそこはこう、ここはこう、と描くから、空との視線のやりとりがいくつもできる。
点が三つあれば平面が規定されるのだから、三か所に目を移したら、空は平らになってしまう理屈だ。
カメラなら、空のへこみを撮れるだろうか。
でも焼き付けるのは二次元だから、へこんで見えることはないのだろうか。
考えてもわからないことを考えている。
でも、やはり、わたしの見る空はへこんでいる。
そこにわたしの空の心がある。
体の心と、空の心が、見ることによってつながる。
見ていないときも、思えばつながる。
わたしが後にしてきたところであり、わたしが帰るところでもある。