生きてる人を呼ぶイタコ
よほど出歩いているからだと思うのだけれど、街で知っている人にばったり会うことがよくある。
たとえばきょうも。
最寄り駅にいく前に用があって、数十メートルだけいつもと違う道を歩いたら、半年ほど会っていなくて消息を知りたかった人に会った。
その後、新宿に出て、東口にいきたいのに、中央東口への通路に下りてしまって、東口まで抜けようとしたら、こどもたちの幼稚園の頃の後輩ママに会った。
前者は同じ街に住んでいる人とその街で、だから、ばったり度は後者より低いわけだが、その人は週に6日はよその街で働いているので、やはり邂逅には違いない。
きょうに限ってその数十メートルをその時間に歩いていたという偶然があってこそだし。
新宿駅の後輩ママは、本気で驚いていた。
地元のスーパーマーケットでなら月に一度は会っているから、なおのこと、新宿駅構内というのは意外だ。
一瞬手を取り合って、別れた。
こういう現象は、行動半径の広がった大学生の頃から起こるようになった。
高校のともだちがそれを聞いてわたしをこう呼んだ。
「生きてる人を呼ぶイタコ」。
週刊誌で街の出来事を集めるページを手伝っていたとき、自分のイタコ話をしたら、同じチームの女性の旦那さんが地球規模に呼ぶ人だとわかり、取材させてもらったことがある。
その人はカメラマンで、世界中を歩いていた。
最初はたしかヒマラヤだった。
外国人のカメラマンと出会い、意気投合して、でもそのまま別れた。
それから一年もしないうちに、なんと、奈良公園の猿沢池のほとりで再会。
喜びあって、また別れる。
きっとまたどこかで出会うでしょう、と彼はいったが、わたしもそう思った。
後日談がある。
わたしはそのカメラマンと奥さんに、数年後新宿のカレー料理店でばったり会った。
まだある。
そのさらに数年後、息子を連れてある漢方医院にいったら、その奥さんもこどもを連れてきていた。
イタコの妻もイタコなのか。
そこにわたしのイタコ力が加わって呼びあったのか。
袖振り合うも多生の縁。
わたしたち生きイタコは、相当な長袖を振って歩いているのかも知れない。