わたしの落語史5 学園祭
女子大4年の学園祭。
実行委員会に話をしてみたら、ギャラは10万円まで出せるといわれた。
わたしは談志師匠にまた手紙を書いた。
学園祭にいらしていただけませんか、ギャラは10万円です。
次に会ったとき、師匠は、しょうがねえなあ学生は、金がないないいいやがって、いってやるよ、と返事をくれた。
当日、出囃子は生演奏がいいと思って、地元のともだちの弟の三味線弾きを連れてきた。
東京藝術大学の邦楽科を卒業した人だったから、出囃子だけではなく、長唄の演奏もしてもらった。
唄の人もきてくれて、長唄と落語という伝統芸能の催しになった。
その落語が立川談志師匠というのは、いま考えると震えがくるが、当時は怖いもの知らずだったから、わーい、と喜びいさんであれこれ手配した。
談志師匠は遅刻に定評がある。
この日も50分遅れて到着。
会場の講堂にお客さんはひとクラスくらいの人数だったが、待ちくたびれていた。
開演時間にして30分は遅れたと思う。
出囃子に送られて師匠が舞台に現れたときには、さすがにわたしも胸がつまった。
これはほんとうにいま起こっていることだろうか、と思いながら師匠を見ていた。
学園祭が11月の末で、暮れの話がいいだろうといいながら入ったのは「富久」。
師匠は落語会よりリラックスした様子で、たっぷりと演じてくれた。
終わってから、大学の前にある北欧料理店で師匠とマネージャーと女性の落語プロデューサーとわたしとで食事した。
師匠は鶏のクリーム煮かなんかを食べながら、きょうはよくできたな、よかったろ、気持ちよかったな、とご機嫌だった。
それから「富久」の解説もしてくれて、わたしとプロデューサーは神妙に聞いたものだ。
わたしがふれた談志師匠は、いつも優しく、愛情深かった。
そして、落語の話しか、しなかった。
わたしはひそかにあだ名をつけた。
「日本一の落語ファン」。
当代随一の演者でありながら、落語の大ファン。
落語ファンであることにかけても、人後に落ちなかったのだ。