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羽生千夜一夜 

羽生さくる 連続ブログエッセイ

わたしの落語史6 エスカレーター

談志師匠が落語協会を脱退して、立川流の家元になったころから、わたしは彼を追いかけなくなった。

脱退するに至った師匠の気持ちは理解できたけれど、文句をいいながら寄席に出ている師匠が好きだったから。

 

わたし自身、一人暮らしをするようになり、そのあと結婚して、時間や経済に余裕がなくなったこともあった。

師匠のことはマスコミで見るだけの日々が続いた。

 

30歳になったころだったと思う。

地下鉄の半蔵門駅の下りのエスカレーターに乗ったら、下から談志師匠が上がってくる。

三宅坂国立演芸場にいくところなのだと思った。

わたしの前にも師匠の前にも誰もいない。

顔が見えるかどうかくらいの距離のうちに、師匠、師匠、と叫んで手を振った。

師匠も気がついて、おお、と手を挙げた。

すれ違うとき、元気か、と聞かれ、元気です、と答えた。

 

それが師匠と会った最後になった。

師匠には変わった様子はなかったのに、わたしはやはり、噺を聴きにはいかなかった。

 

それから10年経って育児の本を書いたとき、師匠に送った。

すぐにはがきがきて「幸せそうでなにより」とあった。

 

師匠の病気についてもマスコミで知るだけだった。

亡くなったときは、家で泣いていただけ。

それから師匠の映像はいっさい見られなかった。

 

一昨年、息子が、談志師匠面白いよ、といって、iPhoneで動画を見せてくれた。

高座の師匠がちっちゃくなってそこにいた。

小さかったから、見てもなんとか平気だった。

 

それで『映画 立川談志』のDVDを買って、一人きりになれた夜に見た。

最後の高座の師匠を、文字通り、わんわん泣きながら見た。

でも、そのあとの「やかん」と「芝浜」については、同じ演目でもこれじゃないのはなかったの、と思ったり、構成自体がもっと違うことできただろうに、と思ったり。

不平不満で涙をすっかり乾かした。

 

そうはいっても、あれ以来また師匠の映像は見ていない。

書店に師匠が表紙になっている雑誌があったら、立ち止まってしばらく悲しみに耐える。

 

半蔵門のエスカレーターを上がっていく師匠の後ろ姿を、いまも目で追っている。

デニムのジャンパーを着ていた。