羽生千夜一夜 

羽生さくる 連続ブログエッセイ

曲がり角の沈丁花

小学校3年生の3学期。

わたしは新しい言葉をつくることに挑戦していた。

 

言葉は世界にたくさんあるけれど、どれも最初は誰かがつくったものだ。

誰かがつくって、だんだんに広まっていった。

だからわたしにもつくれるに違いない。

自信をもって臨んでいた。

 

毎日の学校からの帰り道を、その時間にあてていた。

帰るときには帰ること以外なにも気にする必要がないから、考える余裕がある。

校門を出てから家までは、ほとんど一本道だった。

 

ランドセルの左右のベルトをつかんで歩きながら、頭のなかに五十音図を思い浮かべる。

そこから一文字ずつ拾って組み合わせていく。

まだ一度も聞いたことのない組み合わせを探す。

好きな音、心地よく響く音、愉快な音、リズミカルな音。

 

発想はいいのだけれど、実際にはなかなか難しい。

まったく新しい、斬新な組み合わせというのは見つかりにくいものなのだ。

 

邪魔も入る。

たとえばいつも着物姿で外を掃いているおじさん。

レレレのおじさんではなくて、こどもの目にはおじいさんに近い、粋な感じの人だった。

こども好きで、学校から帰ってくるこどもたちに声を掛ける。

わたしも毎日なにかしらいわれて、下町っ子らしく愛嬌よく返していた。

でも、わるいけど、ここしばらくはそっとしておいて欲しい。

そんな気持ちはおじさんには通じなくて、おうっ、おかえりっ、とまたいわれてしまうのだ。

 

それでまたいちから出直し。

新しい言葉、あたらしいことば。

うーん、ぽ....

ぽんどこ!

 

そのあまりの陳腐さに、みぞおちがきゅーっと痛くなる。

タヌキの腹つづみじゃないんだから。

 

広い通りとの交差点を渡ると、家への曲がり角がもう近い。

あたらしいことばことば、あかさたな、はまやらわ...

 

濃く甘い匂いがただよってくる。

鼻に入るとすぐに頭に届いて重くなり、なかから一本きーんとした筋を感じる匂い。

沈丁花だ。

路地の角に山盛り咲いてる沈丁花

冷たく光る眼鏡をかけたおばあさんと、やせていて目の下がふくらんだおばさんの親子が育てている花だ。

 

ここできょうの挑戦は終わり。

沈丁花を嗅いだあとの頭では、もう考えられない。

家に帰れば母と話をしなければならないし。

 

きょうもまた新しい言葉をつくりだすことはできなかった。

わたしはうなだれて路地を曲がる。

きっとつくれるという自信を取り戻すには、あしたを待たなければならない。

 

だから沈丁花の匂いには、いまも手放しではひたれない。

春の始まりを教えてくれる花なのに。

できなかったなあ、という気持ちを先に思い出してしまうのだ。

ランドセルのベルトを肩口でつかんでいる感触とともに。