羽生千夜一夜 

羽生さくる 連続ブログエッセイ

TAKARAZUKA

おととし、娘が高校三年生のとき、大学では舞台美術を学びたいと希望したことから、10年前一度だけ観た宝塚を、また二人で観にいってみようと決めた。

知り合いの年季の入ったファンの人に連絡したら、すぐに宙組のチケットを取ってくれて『モンテクリスト伯』を彼女といっしょに観ることになった。

当日東京宝塚劇場の前で待っていてくれた彼女は、優雅な笑顔で「ようこそ宝塚へ」といった。

一点の曇りもないその台詞。

わたしと娘はしびれた。

 

それからまたすぐに宙組の『風と共に去りぬ』を観て、去年は幸運ないきさつで『ベルサイユのばら』を観ることができた。

いまは来月の『TOP HAT』を待ちわびているところで、つまり、わたしも娘もすっかり宝塚とくに宙組のファンになったのである。

 

わたしにとっては宝塚は「女子校文化祭の演劇公演の最高峰」。

男役トップスターは女子校の先輩の最高峰で、男役二番手以降は女子校の後輩の最高峰だ。

女子校経験10年だからそこは揺るがない。

 

娘は、宝塚の生徒たちの凄まじいまでのレッスンの集積に感じ入っているようだ。

小学生で観たときの最初の感想も「手が揃ってる」だった。

自分もダンスを習っていたから、あれだけの人数がぴったり手の角度を揃えるにはどれほどのレッスンをしたのだろうかと感動したらしい。

 

わたしは最近、もう一つ感じることがあった。

宝塚では、素晴らしい男性像への憧れで、舞台と観客が一体となるのだと。

男役は、理想の男性像を演じて舞台上に存在させるために研鑽を重ねる。

娘役は、男役を輝かせるために最高の女性らしさを昇華させようとする。

観客は、娘役に自分を投影しながら、男役が表す理想の男性像に陶酔する。

 

生身の男性がいやで宝塚が好きになるわけではないのだと思う。

ひらたくいえば、みんな男性に恋しているのだ。

男役も娘役も観客も。