羽生千夜一夜 

羽生さくる 連続ブログエッセイ

ダンデライオン

四六時中言葉を書きつらねている身としては、歌を聴いても歌詞の文法的整合性が気になってしかたがない。

気にしてもしかたないような歌詞もたしかにあるけれど、ついつい編集者として聴いてしまっている。

 

そういう意味で、松任谷由実の「ダンデライオン」は長いこと気になる歌だった。

歌詞の主語がサビでずれるのだ。

女の子が好きな男性を見送っているシチュエーションで、その人にずっと手を振りつづけていたいと歌う。

そこにいきなり「きみはダンデライオン」。

えーと「きみ」って誰、とまず思う。

好きな男性のことかなと続きを聴くと、すぐに「彼」と出てくる。

だから「きみ」は彼ではない。

えーと。

 

2番では「私」の一人称になる。

「私にできる全てをうけとって」

そしてまたサビで「きみはダンデライオン」。

締めは

「とても幸せな淋しさを抱いて これから歩けない 私はもうあなたなしで」

 

最後まで「きみって誰」の謎は解けない。

文脈ではダンデライオンは「私」なのだけれど、そうしたら「きみがそうだよ」といっている人は誰なのかという問いも生まれる。

「きみっていってる人は誰」

誰なの。

 

と、もどかしく思っていた、が。

きのうの朝、徳永英明のカバーアルバムで「ダンデライオン」を聴いて、ああーっと、わかった。

「きみ」は「私」で、「きみ」といっているのも「私」なんだ。

 

生涯でただ一人と思える人にめぐりあった女の子が、自分に向かって「きみはダンデライオン」すなわち「遅咲きのたんぽぽ」なんだよ、といいきかせている。

「きみ」と女の子を呼ぶのは、女の子のなかの少年性のように思う。

あるいは中性の妖精のような存在。

この歌は、女の子の内面の、もう一人の自分との対話なのだ。

 

わかったとたんに号泣する ダンデライオン系のわたし。

さすがユーミン、歌詞にぬかりはなかった。

徳永英明の男声で聴いたことが理解に導いてくれた。

名曲だ。