羽生千夜一夜 

羽生さくる 連続ブログエッセイ

きもちを伝える

自分の気持ちを口に出すことがどうにも苦手だ。


こんなに自分の気持ちばっかり書いているのに?

嘘でしょう?


といわれそう。

自分でもそう思う。


書くときは、引かれるくらい自分の気持ちばっかり書いているのに、書くことを離れると、目の前の人にはなかなか、なかなか気持ちを伝えられない。


好き、とか、いいね、よかったね、だったらまだいえるのだけれど、嫌い、いやだ、やめて、悲しい、寂しい、は怖くてとても言葉にできない。


寂しい、と人に「平気で」いえる人に対して批判的になることもある。

自分がいえないから、妬ましいのだ。


困るのは、好きな人に、嫌い、いや、やめて、をいわなければならないときだ。

その人が嫌いになったからではなく、好きだから、嫌い、という気持ちが生まれる。


もともと嫌いな人にはわざわざいうこともない。

好きな人だから、ときには嫌いになることもあって、それを口に出して伝えないと、もともとの好きということが伝わらなくなる。

その人のことなどなんとも思っていないかのようなわたしに、少なくとも見た目は、なってしまう。


そんなとき、きょうだいのいる人をうらやましく思う。

小さいきょうだいたちは、おにいちゃんなんか、おねえちゃんなんかきらいだー、こっちこそだいきらい、どっかいっちゃえ、もうしんじゃえ、なんていいあって、その日のうちに仲直りしているのではないだろうか。


それは一人っ子の幻想かしら。

とにかく、こどもの頃に感情を出しあう経験ができていたら、もっと楽だったろうな、と思う。


周りがみんな大人で、大人っぽいことをいって面白がられるか、無垢なところを喜ばれるか、どちらかしかなかったから、感情を口に出すのはわがままと、自分から思うようになっていた。


自分のこどもが大人になるような年まできて、まだそんなところでつまづいているのかと情けなくもあるが、やはり、怖れを打破するほかはないのだと思う。


すっかりやさぐれたみたいな扮装をして、内心どきどきだけど、もう煙草でもくわえちゃって、やだね、と一言いってみるとか。


そういう自分を想像して笑って勢いつけてみるとか。


ピンポンダッシュみたいに、きらいだー、というなり走りだすとか。


それをほんとにインターフォンでやってみるとか。


わたしが煙草を吸いはじめたら、リハビリの努力をしてるんだと思ってください。