羽生千夜一夜 

羽生さくる 連続ブログエッセイ

わかっている

こどもはどんなに小さくても、周りを観察して、状況を把握し、記憶もしている。

わたしがそれを実感したのは大学生のときだった。

 

わたしは両親と三人で品川のマンションに住み、マルチーズを飼っていた。

家は7階で、散歩にいくときはもちろんエレベータを使う。

9階に、小さな兄弟がいた。

兄は3歳くらい、弟は赤ちゃんで、おかあさんにおんぶされてエレベータに乗っている。

7階からわたしとマルチーズを抱いた母が乗り込んで、彼らと顔を合わせることがよくあった。

わたしたちはおかあさんに挨拶をし、きょうだいにも話しかける。

母はマルチーズを彼らに見せてアフレコをするように「おはよう」なんていったりした。

 

そんな時期が1年ほど続いてから、マルチーズが死んだ。

それからまた1年ほど経って、母が一人でエレベータに乗ったとき、もう3歳近くなっていた弟が聞いたそうだ。

「おばちゃん、ワンワンは?」

涙もろい母は、わたしに話しながらまた泣いていた。

 

弟は、マルチーズを見なくなってから1年のあいだ、どうしたんだろうと思っていて、話せるようになったとたんに母に聞いたのだ。

言葉に置き換えられなくても、おばちゃんはこのところずっと犬を抱っこしていない、という意味の、アイデアかイメージかストーリーのようなものをキープしていたのだと思う。

 

赤ちゃんて、すごいね、面白いね、と母と話しあったものだ。

 

この経験があったから、息子が生まれたときから自然と、ぜんぶわかる、という前提で接することになった。

産湯をつかってきた息子を最初に抱いて、わたしはいった。

「きみだったの」

おなかのなかでぼこんぼこん動いたり、しゃっくりをしたり、出てくるまでにこんな騒動を巻き起こしたのは、きみだったの、と。

 

少々芝居がかった台詞ではあったけど、実感だった。

息子は、産声からの大泣きを一段落させて、まぶしそうに顔をしかめていた。