羽生千夜一夜 

羽生さくる 連続ブログエッセイ

空月謝 2

娘は、生後1か月から兄の送り迎えにつき合わされた。

どんなに熟睡している状態でも、家に置いていくわけにはいかない。

寝たまま抱っこして送っていき、家に帰ってベビーベッドに下ろすと起きる。

ベビーカーでも同じだった。

移動中は寝ているが、帰ってくると起きる。

 

そういう3年間を過ごし、3歳になりたてで入園した。

先生方も、息子の後輩のおかあさんたちも、あのちいさかったCちゃんが歩いてきた、と感激。

ほどなく、娘は、先生たちがうるさい、という意味の不満を訴えはじめた。

幼稚園の門を入って玄関につくまでに、先生がつぎつぎに、顔をのぞきこんでおはようおはよういってくるのが、ようするにうざいんだと。

当時はまだ「うざい」という言葉は遣っていなかったけれど、自分だけそのようにされるのはいやだ、やめて欲しいというのだった。

 

わたしは、上に書いたようなことを本人に説明した。

小さな赤ちゃんだったあなたが入ってきて、先生たちはうれしいのよ、と。

娘は納得しなかった。

ちやほやされたくない、という感覚は、わたしにはわからなかった。

かわいがられてもうれしくないなんて、と。

 

いまはわかる。

かわいがることと、ちやほやすることは違う。

娘を理解してかわいがる人は、黙って見守っている。

ロージナ茶房のマスターのように。

 

先生たちの「おはよう」はやまず、娘は、むっとして通り過ぎるという対応を続けた。

とにかく笑わない子だったのだ。

それも、息子やわたしの幼児期とはまったく違う。

息子とよく「Cちゃん、笑わないねえ」「ほんとにねえ」と話しあったものだ。

 

七五三の撮影のときも、スタジオの人がお人形を見せてあやしたりするので、ますますむっとしてしまい、笑い顔を撮るのが大変だった。

終わってから、彼女は宣言した。

「もういっしょうきものはきない」

 

次の年、年中組になってしばらくして、娘は幼稚園はつまらない、といいだした。

遊ぶばかりで面白くない、もういきたくない。

そのころ、息子は2年生になっていて、家でも宿題をするし、勉強の話題も出る。

おにいちゃんのすることは自分もなんでもできると思っていた娘にとっては、幼稚園で毎日遊ぶだけなのは苦痛だったのだ。

彼女たちの幼稚園では、文字も数も教えなかった。

礼拝と、遊ぶことだけ。

 

息子のときと違って、娘の「いきたくない」はそのものずばりの固い意志だったので、説得はできないし、他に原因があるのかと探ってもなにも出てこない。

つまらないからいきたくない、以上、なのだ。

 

わたしは3年ぶりに閉口した。

また、そんなにいきたくないのなら辞めてもいいかなあ、とも思った。

それでも、月末になると、もう一月払ってみよう、来月もいかなかったらそのときまた考えよう、と先延ばしにしては空月謝を払いつづけた。

 

このように、いきたくない理由ははっきりしていたのだが、結果としてまた通いはじめたきっかけは、はっきりしていなかった。

なんとなく、休んでいるのも飽きたから、そろそろいってやるか、という感じだった。

いきはじめたら、ともだちが喜んで迎えてくれて、それこそちやほやしてくれた。

それはそれで気持ちがよかったらしく、それからはいきたくないとはいわなかった。

 

以上、のべ1年の二人の登園拒否。

空月謝の総額は26万円ほど。

痛い出費ではあったが、それ以後、小学校から中学、高校、現在の大学まで、二人ともまずまず楽しく通っていることを思うと、無駄金ではなかったのだろう。

 

わたし自身にとっても、母親として、こどもたちとしっかり向き合うための授業料だったと思う。

二人が幼稚園にいかないあいだ、困ってはいたけれど、無理強いをする気にはならなかった。

親から頭ごなしにいわれることは、わたし自身がいやだったからできなかったのだ。

感覚を行動に反映できるかどうかを試されていたように思う。