S&S 奉仕と犠牲
東京女子大学の校章は、二つのSを90度に重ねた形。
service(奉仕)とsacrifice(犠牲)の頭文字だ。
プロテスタント系の大学なので、どちらの言葉も、聖書においての意味で理解する。
「神」「主」「イエス」に「尽くし仕える」すること、そのために自分を「捧げる」こと。
人間同士の「奉仕」と「犠牲」とは違い、それをした人が自分をなくするようなことはない。
そうすることで、その人は神の恵みを受け、神と一体となった至福のなかに生きるのである。
と、キリスト教学の講義をしようというわけではなくて、この二つの言葉のわたしにおける遣いかたの話。
身も蓋もない。
好きな人に「奉仕」して、嫌いな人の「犠牲」になる。
そんな人生だったのよ、と書いてみると笑い話だ。
自分を空しくして人に尽くすのが好きだったし、他に人への対しかたを知らなかった。
内面は十二分にエゴイスティックで、尽くす自分本位ということなのだけれど、人に向かうと、いつも自分のしたいことを空にするのだった。
好きな人には進んでそうする。
いっぽうで、嫌いな人にも尽くさなくてはならないように自分を追い込んでもいた。
そこでは「犠牲」になり、ますますその人が嫌いになる。
尽くしているうちに、もとは好きだった人が嫌いになることもある。
尽くしても感謝されないとき、大事にされないとき、愛されないとき。
わたしはその人を嫌いになる。
それでも尽くすことを続けなければならないように自分を縛る。
つまり、奉仕も犠牲も、わたしにとっては同じことなのだった。
奉仕でも犠牲でもなく、自分をどこにも避けずに、自分の内側に置いて、したいことをする。
それはなんだろう。
考えると、怖くなってくる。
編物だとか、映画を観る、お茶を飲みにいく、デパートにいく、そういう軽い気分転換なら何か月でも続けていられるが、尽くすことをすっかり辞めて、それと同じエネルギーを注ぐとしたら。
わたしはなにをしたいだろう。
それをしたら、人を失うのではないか。
自分のことに没頭して、ふと顔を上げたら、誰もいなくなっているのではないか。
自分のことばかりしていたら、わたしには人は必要ないとと思われるのではないだろうか。
遠いどこかにそんな怖れの出処があるのかも知れない。
こうして書くこと。
吐き出した糸のような、自分の言葉を見つめながら、また糸を吐いていくこと。
これだけは怖れなく没頭できる。
書くことは、読んでくれる人を求めるしぐさでもあるからだと思う。