羽生千夜一夜 

羽生さくる 連続ブログエッセイ

あまあまママ

こどもたちの話にきょうは戻ろう。

 

母親として、わたしはごくごく甘いタイプだ。

彼らが幼いころ、欲しがったものは、ほとんどすべて買ってやった。

サンタさんにお願いしなさい、はいったけれど、お誕生日まで待ちなさい、は一度もいったことがない。

 

公園は苦手だったが、電車に乗りたいとか、鉄道博物館にいきたい、地下鉄博物館にいきたい、競馬場(の内馬場)にいってポニーに乗りたい、『ライオンキング』がもう一度観たい、などなどのリクエストには、ほぼ、もれなく応えた。

 

家のなかでも、アイスクリームの蓋からヨーグルトの蓋に至るまで、開けてといわれたものはぜんぶ開けてやったし、食べたいといったものしか作らなかったし、読んでといわれた本もぜんぶ読んだ。

 

やりすぎだったに違いない。

ただ、わたしは彼らに「望みは叶う」ということを体感して欲しかった。

いきたいと思ったところにはいける、欲しいと思ったものは手に入る、知りたいと思ったことは調べることができて、知ることができる、頼んだことはやってもらえる、話は聞いてもらえる、食べたいと思ったものが食べられる、望んだことは叶う。

 

そうとは限らないということを教えるのが親だという考えかたもあるだろう。

そんなになにもかも買ってやったら、際限なく欲しがるこどもにならないか、頼まれたことはなんでもしてやったら、自分でなにもできないこどもになるのではないか、わがまま放題の、野獣にされてしまう前の王子のようなとんでもない人間になるのではないか。

 

わたしには確信があった。

こどもは本来節度を持っている。

多く与えても、わがままにはならず、際限なく欲しがるようにもならないだろうと。

 

おもちゃもゲームも、ある時期からは二人ともほとんど欲しがらなくなった。

よほど気に入ったときにゲームソフトを買う程度。

わたしが誘っても、いらない、といわれてしまうようになった。

 

いま大学生になっている二人は、ほとんど節約家だ。

とくに娘はバイトして貯蓄に励み、服は選んでいいものをぽんと買う。

なににつけても人にせがむということがなくて、態度に余裕がある。

 

彼らは「ない」ではなくて「ある」を基本に生活しているように見受けられる。

おもちゃと絵本とカードとゲーム機とゲームソフトの山(文字通りの山)はそのように役に立ったのだ。

立ったと思わないとわたしが生きていけなくなるが。

 

それぞれに思いやりがあり、ともだちとも円満につきあっている。

本人たちの資質によるところが大きいが、望みが叶えられた経験も彼らの心を育てたと思う。

 

これからこどもを育てる人に、アドバイスになるかどうかはわからないが、あまあまでいくのも悪くない。

こどもをスポイルするのは、与えるものに心が入っていないときではないか。

こちらに愛する心があれば、どこまでいうことを聞いてやっても、わがままにはならないと思う。