山べにむかいてわれ
ミッションスクールの母校で、校歌についでよく歌われる讃美歌301番。
山べにむかいてわれ 目をあぐ
助けはいずかたより きたるか
山に向かってわたしは目を上げる
助けはどこからくるのだろうか
卒業してからも、つらいときにはこの讃美歌を思い出していた。
たびたび、思い出していた。
でも、助けはきたとは思えなかった。
はっきりいってこなかった...
それは、わたし自身が助けのくる場所にいなかったからだった。
わたしは、なにがつらいのかということでもあった。
わたしは、自分がこういうつらい目に「遭って」いる、と思っていた。
周りの状況ゆえに、あるいは誰かのせいで、と思ってつらがっていた。
そこに助けはこない。
ときにきたようでも、それはじっさいは助けではなく、状況の自然な変化だったり、時間の経過だったり、自分の気が紛れたりしただけだった。
自分以外からつらさが「きている」という考えかたは変わっていないなので、またすぐにつらくなる。
つらさを招いているのは、他の誰でもない、自分自身なのだ。
自分の本心はそれを知っている。
知っているけれど、そこに至るとすごく苦しいことがわかっているから、手前でなんとかならないかともがく。
予防注射の列に並んでいるときみたいなものだ。
なにか突発的なことが起こって、注射が中止にならないかなあと考えたりする。
その瞬間の痛さを思うと身が縮み、なんとか逃れたいと思う。
でも、逃れられない。
本心の近くまで迫って、これは自分のせいだ、と気がついたら飛び込むしかないのだ。
そして、誰かのせいだと思っていたその誰かに、「せい」にしてしまったことを心のなかで謝ることが必要だとわかる。
その苦しさ。
嫌いで嫌いでどうしようもない人、その人にされたことで何十年も心の傷がいえない当事者。
その人に心で詫びることが、自分を救うことだとわかって、自分のためだからこれをしようと思って、でも苦しい。
良薬は口に苦しという、その苦さが凝縮したような味だ。
これを飲むのはつらいです、助けてください、と思わず声が出る。
そのとき、背中に当てられた手の温かさを感じた。
「助け」はきた。
そう思った。
抽象的なものではない。
人の手と変わらない、リアルな温かさだ。
自分は痛めつけられている、苦しいです、つらいです、といっていたときにも、その温かさは存在していた。
ただ、わたし自身がそれに触れる場所にいなかったのだ。
自分で自分を助けようとするときに背中に添えられる温かい手。
それが「助け」だ。
山べにむかいてわれ 目をあぐ
助けはいずかたより きたるか
あめつちのみかみより
たすけぞ われにきたる