モンブラン
入園して1か月半、なかなか周囲になじめないという女の子のママの話を聞く。
たった1か月半だもの、なじめないのは無理もない、と励ます。
そもそもまだ3年しか生きていないのに、なにかが「遅い」なんてことがあるだろうか。
「早い」子はいるのかも知れないけれど「ちょうどいい」子はどこにいるの。
それをいうなら、その子自身にとって、すべてはいつも「ちょうどいい」のだ。
その子自身のペースを見ないで、誰のなにを見ようというのだろうか。
娘は3月初めの生まれで、入園したときは3歳1か月だった。
入園してすぐ4歳になる4月生まれの子と比べたら、11か月も小さい。
4月生まれの子が立ってそろそろ歩こうかという頃に、娘はようやく生まれた。
3年経っても追いつくはずがない。
わたしは気楽に構えていた。
上の子が4月生まれだったから、そう思うことができたのだろう。
入園して、彼女にとっては毎日が緊張の連続だった。
そして毎日、帰りに大学通りの洋菓子店に寄って、モンブランを食べた。
それで緊張をほどいていたのだ。
わたしは止めなかったし、もういいでしょう、ともいわなかった。
毎日、付き人のように彼女に従い、洋菓子店に入っていき、紅茶でつきあった。
夏休みが始まるまで、モンブランは続いた。
休み明け、モンブランは、寄り道の選択肢の一つになっていた。
それでも彼女はその洋菓子店のモンブランに恩義を感じているらしかった。
誕生日のケーキには、モンブランのクリームで飾ったものを特別に作ってもらったし、他のお店のモンブランは、どんなに薦めてもけっして食べようとしなかった。
19歳のいまもそれは変わらない。
せんだっての誕生日にもモンブランのケーキを注文した。
お店のご主人や古い店員さんは、毎年娘の年を聞いては、涙ぐみそうな顔をする。
こどもがこだわるものには理由がある。
こちらがそれを理解できてもできなくても、ただ、理由があるんだな、と思ってやるだけでいい。
それで、本人が納得するまで、こだわらせてやればいいのだ。
親が「そんなことはおかしい」とやめさせる根拠はなんだろう。
成長の早い遅いと同じだ。
架空の「常識」で、たった一人の本人であるこどもの行動を制限する必要はない。
こどもと自分との関係がよければそれでいい。
わたしはそう思ってきた。
こどもの味方になりきること。
自分以外の誰かの側に立ってこどもを見ないこと。
こどもが見ているのはわたしで、わたしが見ているのはこども。
視線で結ばれた二人の世界のまんなかにあるモンブランだ。
かけがえのない大切なものではないか。
いつでも好きなだけ食べたらいい。