イノセンス
きょうは打ち明け話。
罪悪感を持たずに生きる。
昨年来、あちこちからそういう言葉が聞こえてきていた。
もっといえば、罪悪感を捨てる。
それが幸せになる方法だと。
わたしは罪悪感のオーソリティだった。
捨てようとすると、非常な葛藤が起こる。
それでも、寄せては返す波が砂に書いた文字を消すように、少しずつ、消そうとしてきた。
幸せになるために、というより、幸せになることを自分に許すために、怯えとたたかいながら少しずつ。
罪悪感を持って生きることは苦しいからやめたいはずだが、じつは、持って生きているほうが「楽」なのだ。
手放したら大変なことが起こるという怯えもあるし、これさえ持っていれば「安心」だという気持ちもある。
つまり、罪悪感が「お守り」になってしまっているわけだ。
罪悪感を持って生きていて「いいこと」なんてないのに、その「いいことがない」人生に裏返しの安らぎを抱いている。
持っていない人にはわかりづらいことだと思う。
いいことがなくてほっとしている、だなんて。
もう罪悪感はきっぱり捨てて、幸せになろう、と決意した日から幾日も経たないうちに、そんなの無理だと思いはじめ、無理な証拠を探すのだ。
それを何度も繰り返しながら、少しずつ、自分を強くしようと努力してきた。
そして、きょうのこと。
自宅に近い舗道を歩いているとき、後ろから、捨てろ捨てろ捨てろ、とせき立てられる気がした。
と同時に、立ち止まりたいほどの苦痛が襲ってきた。
父といっしょに暮らすことのなかった異母姉のこと、父とまた暮らしたいとずっと望んでいた異母兄のこと、他のさまざまなことが胸を締めつけてきた。
それでも「捨てろ」の声はやまない。
わたしは日傘の柄を握りしめた。
その手を放せ、と声はいう。
容赦はなかった。
わたしは泣きべそ顔になって、傘を肩に預けて柄から手を放し、痛みを払うように振った。
お昼の時間だったが、前から人はこなかった。
舗道の30メートルほどが、リアルな苦痛をともなったイニシエーションだった。
わたしは、悪くない。
わたしには、なにもできなかった。
できなくても構わなかった。
責任はないのだから。
生まれてきたことに、責任はない。
自分の人生を生きることに対して、自分に責任があるのだ。
でも、それについても、なにももうしなくていい。
ただ、幸せになろうと決めさえすれば。
好きにしていればいい、心と体を休めていればいい。
そして周りの人を信じて、心を開きたい。
もう、ほんとうに疲れてしまっていたのだ。
罪悪感を持ったまま、他のことで認めてもらって、役に立つと感じてもらって、ここにいてもいいよね、と相手の顔をのぞきこむような自分に。
ここまで書いて、締めの言葉がなかなか見つからない。
適当に格好をつけて切り上げるのももうやめたいから、このままで、またあした。