羽生千夜一夜 

羽生さくる 連続ブログエッセイ

イノセンス

きょうは打ち明け話。

 

罪悪感を持たずに生きる。

昨年来、あちこちからそういう言葉が聞こえてきていた。

もっといえば、罪悪感を捨てる。

それが幸せになる方法だと。

 

わたしは罪悪感のオーソリティだった。

捨てようとすると、非常な葛藤が起こる。

それでも、寄せては返す波が砂に書いた文字を消すように、少しずつ、消そうとしてきた。

幸せになるために、というより、幸せになることを自分に許すために、怯えとたたかいながら少しずつ。

 

罪悪感を持って生きることは苦しいからやめたいはずだが、じつは、持って生きているほうが「楽」なのだ。

手放したら大変なことが起こるという怯えもあるし、これさえ持っていれば「安心」だという気持ちもある。

つまり、罪悪感が「お守り」になってしまっているわけだ。

 

罪悪感を持って生きていて「いいこと」なんてないのに、その「いいことがない」人生に裏返しの安らぎを抱いている。

持っていない人にはわかりづらいことだと思う。

いいことがなくてほっとしている、だなんて。

 

もう罪悪感はきっぱり捨てて、幸せになろう、と決意した日から幾日も経たないうちに、そんなの無理だと思いはじめ、無理な証拠を探すのだ。

それを何度も繰り返しながら、少しずつ、自分を強くしようと努力してきた。

 

そして、きょうのこと。

自宅に近い舗道を歩いているとき、後ろから、捨てろ捨てろ捨てろ、とせき立てられる気がした。

と同時に、立ち止まりたいほどの苦痛が襲ってきた。

 

父といっしょに暮らすことのなかった異母姉のこと、父とまた暮らしたいとずっと望んでいた異母兄のこと、他のさまざまなことが胸を締めつけてきた。

それでも「捨てろ」の声はやまない。

わたしは日傘の柄を握りしめた。

 

その手を放せ、と声はいう。

容赦はなかった。

わたしは泣きべそ顔になって、傘を肩に預けて柄から手を放し、痛みを払うように振った。

お昼の時間だったが、前から人はこなかった。

 

舗道の30メートルほどが、リアルな苦痛をともなったイニシエーションだった。

わたしは、悪くない。

わたしには、なにもできなかった。

できなくても構わなかった。

責任はないのだから。

生まれてきたことに、責任はない。

自分の人生を生きることに対して、自分に責任があるのだ。

 

でも、それについても、なにももうしなくていい。

ただ、幸せになろうと決めさえすれば。

好きにしていればいい、心と体を休めていればいい。

 

そして周りの人を信じて、心を開きたい。

もう、ほんとうに疲れてしまっていたのだ。

罪悪感を持ったまま、他のことで認めてもらって、役に立つと感じてもらって、ここにいてもいいよね、と相手の顔をのぞきこむような自分に。

 

 

ここまで書いて、締めの言葉がなかなか見つからない。

適当に格好をつけて切り上げるのももうやめたいから、このままで、またあした。