羽生千夜一夜 

羽生さくる 連続ブログエッセイ

げんきにあいさつ

育児のうちには、社交を教えるという側面もある。

道で知っている人に会ったら挨拶をしなさい、というような。

 

「女は愛嬌。ブスはぶすっとしてるからブスなんだよ」

という乱暴な教育を受けたわたしは、ツンデレは叶わない器量であることを自覚もし、とにかく愛嬌を前面に出して挨拶する習慣を身につけた。

 

しかし、それだけが正解ということはない。

道で知っている人に会って、はにかんで声が出なくて、笑顔もぎこちなく、に、という挨拶だってある。

小さい子ならとくに、それはかわいいものだ。

要は相手に、こんにちは、の気持ちが伝わればよい。

 

ところが親御さんのほうは、いまがチャンスという勢いで、ほら、ちゃんとご挨拶しなさい、なんていう。

に、と微笑んでもらったわたしはほんわかしているにも関わらず。

 

わたしは、いいよねえ、いま笑ってくれたもんねえ、といいながら共犯者的目配せをその子に送り、それにも本人からサインが返ってくるのだが、親御さんは容赦しない。

ほんとにねえ、わかってるんだかわかってないんだか、というのだ。

 

本人の前でぼやく、本人の前で本人をけなす。

これはよくないとわたしは思う。

それまでのこどもを含めた会話から、ふっと、こどもを省いた大人同士の会話になるような瞬間、こどもは親から冷たい空気の流れを感じる。

わたしはできれば、その流れに加担したくない。

 

挨拶にはいろいろな方法がある。

いずれ大人のような挨拶ができるようになってもいいけれど、基本自分の好きなようにすればいいんだよ。

と、わたしは思っている。

それで、わたし自身の好きな挨拶をしているところをこどもにも見せる。

こどもが横で声を出せずにいても、わたしがわたしらしく、こんにちは、と挨拶していればよい。

 

結果として、もともと愛想のよい赤ん坊だった息子はいまも感じよく挨拶をするし、知らない人にはけっして笑おうとしなかった娘もいまはなんと、笑顔でこんにちは、といっている。

 

道で知っている人に会ったときを、しつけのチャンス、と身構える必要はないのだ。

こどもが挨拶できずにはにかんでいることを親のしつけが悪い、と思うような人がもしいたら、思わせておけばよい。

そんな人に、しつけができていてあなたは立派な親ね、と褒められたってたいした足しにはならないのだから。

自分の世間からの評価なんて気にせずに、こどもの気持ちをいつも大切にしてあげて欲しい。