羽生千夜一夜 

羽生さくる 連続ブログエッセイ

礼拝当番

きのうに続いて、中学高校の話。

 

そこはプロテスタントのミッションスクールだったから、毎朝礼拝があった。

でも講堂は一つ。

高校が月・水・金に講堂で礼拝、中学は火・木だった。

だから、中学は月・水・金をホームルームで、高校は火・木を教室でホームルームで礼拝することになる。

その司会とスピーチ、お祈りを、生徒が当番で回すのだった。

讃美歌も自分で決める。

 

クラスは50人だから、中学のときは一年2回以上、高校でも1回以上は回ってくる。

15分間の礼拝を司会するのは、かなりの仕事だった。

 

このときのスピーチ。

その日の聖書の箇所(これは決まっていた)について調べて話すのがオーソドックスだが、それだけでは時間が保たない。

そこから考えたことを一丁前に「説教」したり、聖書とは直接関係はないけれどもいま自分が考えていることや興味のあることを話したりした。

 

礼拝は、ミッションスクールにとって、キリスト教教育の根幹ともいえる大事な時間だ。

それをすっぱり生徒に任せてしまうのは、大胆な教育だと思う。

 

在校中、あるいは卒業後にも、キリスト教の信者となる生徒は全体から見て少ない。

それでも、中1から高3までの間に、10回くらいの礼拝当番をこなした経験は、キリスト教をある部分で自分のものにすることに役立った。

つまり、自分のなかでキリスト教が、ずっと命を持っているのだ。

 

わたしも、人生において困難なとき、判断に迷ったとき、聖書の言葉や、讃美歌の一節に助けられたことが何度もある。

講堂の礼拝で聞いたり歌ったりしただけでなく、ホームルームで自分で考えて話したり歌ったりしたことが、それらを記憶のなかでかすれさせないのだ。