東京には空がない、ですけどそれがなにか?
生まれも育ちも東京下町。
自然は苦手だった。
20代のあるとき、よんどころない用事で、自然豊かな某県に丸三日滞在したことがある。
東京に帰ってくるなり銀座に直行し四丁目の交差点のまんなかで深呼吸。
これよ、これ、と叫んだものだ。
いい空気を三日も吸ってちゃ体がなまる。
青い空よりも、曇ってるのかスモッグなのかわからない、白い東京の空が好きだった。
和紙で裏打ちされた空、なんて書いたこともある。
いつのころからか、東京の空も青くなった。
逆智恵子抄で、東京にも空があって本心では物足りない。
じっさい思っていたのだ。
東京には空がない、なんてけちをつけるんなら故郷に帰ればいいじゃない。
あれも生意気盛りの10代の初めだ。
それでもこどもを持つ親になって、自分の好みだけでは生きられなくなった。
息子の咳を心配して越してきた国立。
空気がいい、という前に、空気が軽い。
その軽さのなかで21年間暮らしてきて、離れがたい。
自然の含有率も、これくらいがいい。
山を見ていると、あの樹々の重なりのまんなかはどうなっているのだろう、と恐ろしくも寂しくなる。
街路樹ががんばっている様子がわたしにはちょうどの自然なのだ。
植え込みの季節の草花もしかり。
よそのお庭の植木もしかり。
この一輪から、自然というものの大元につながっているのだ、と思う。
だから、あなたに祈るの、と花を見つめる。
あなたから、自然の大きな大きな神様に、願いを伝えて。
そんな花の写真を撮るのも、ちかごろは好きになった。