羽生千夜一夜 

羽生さくる 連続ブログエッセイ

生活感皆無

わたしが持っていないものの筆頭。

生活感。

本人はそんなふうには思っていないのだけれど、人はけして見つけてくれないもの。

 

毎日スーパーマーケットに買い物にいっているし、そのうち3日に1回は、ショッピングバッグから長ネギを突き出して帰ってくるし、2週間に1回はその長ネギを道に落として拾ったりもしている。

それでも生活感には結びつかないらしい。

 

娘が幼稚園のとき、学期の終わりにおかあさんたちが昼食を作る日があった。

息子の在園中にもあったのだけれど、娘が小さかったので免除してもらっていた。

その分も、とはりきって、クラス委員にも出て昼食の調理に臨んだのだが。

 

幼稚園の3階の調理室で、三角巾をしてエプロンをつけて、わたしはニンジンを刻んでいた。

仲のよいおかあさんの一人が、わたしの正面に回ってまじまじと手元を見つめ、

「信じられない」という。

わたしがニンジンを刻んでいる光景が、現実のものとはどうしても信じられないと。

 

それから数年後、今度は息子の同級生のおかあさんが。

「あそこのお子たち、ちゃんと御飯食べさしてもろてんねやろか」と心配。

関西出身のおかあさんだった。

 

ここに至り、じっさいは毎日御飯を作っているのだから、見えないっていうなら見えなくてもいいか、と思うようになった。

持ち寄りパーティにおでんを持っていったら驚かれたり、おいしいといってもっと驚かれたり、煮物を作っただけで目を見張られたり。

これはお得な性分というものなのだ。

 

料理は、洗い物までなかなか体力が保たないけれど、作るのは好きだ。

洗濯や掃除も体力が続かないけれど、こどもたちは布オムツで育てたくらいで使命感があればやり通す。

生活してないということはないのだから、もう、このままいくことにする。