羽生千夜一夜 

羽生さくる 連続ブログエッセイ

かわいくなるまで待って

前世紀の話になるが、こういうタイトルの恋愛エッセイを出版したことがある。

『かわいくなるまで待って』(大和書房)

 

パロディ好きのわたしのこと、このタイトルもオードリー・ヘップバーン主演の映画の『暗くなるまで待って』のもじり。

いま思い出したのだけれど、出版前に男性読者の多い週刊誌で同じタイトルの連載もしていた。

 

当時わたしは30でこぼこ。

「かわいい」を内面にだんだんに移行させなければならない年頃だった。

本の内容も、ひとことでいって「かわいげ」を大切にしようというものだ。

かわいげ、すなわち心のかわいさである。

 

それから幾星霜。

二児の母となり、どうやら育てあげた。

そうなったら、トラック2周めに入ったというか、臆面がなくなったというか。

見た目のかわいさは自分のなかで最重要課題となっている。

メイクアップの色味もアクセサリーも、服も靴も持ち物も「かわいい」要素抜きには選ばない。

 

いわゆる「かわいいおばあちゃんになりたい」というのはナンセンスだと二十代から思っていた。

そこに到達するまでの数十年の、毎日こそが大事ではないかと。

女性と生まれて「かわいくなくていい日」なんてない。

いつかかわいいおばああちゃんになれればいいってことではない。

 

「大人かわいい」の「大人」も余計だ。

「かわいい」は「かわいい」。

純なものだ。

少女時代に自ら獲得した「かわいい」センスをころさないこと。

かわいさはとぎれることのない乙女の意識だ。

 

かわいさは、こどもっぽさとは異なっている。

少女はおませに背伸びする。

そのつま先立ちが「かわいい」の核心だ。

 

銀座のあづま通りにあった清月堂ライクスのクリームソーダは、シトロンの、明るいだいだい色のソーダに、黄みがかったバニラアイスクリームが浮かんでいた。

二つが溶けあっていくときの色合いがたまらなく好きだった。

そのあわいにストローの先を合わせ、背筋を伸ばして首も伸ばしてもう片方の先をくわえる。

わたしの「かわいい」はその感じ。

永久に不滅です。