coming soon
きのう書いた友人との出会いに限らず、親しくなる人との間にはしばしば予告編のようなエピソードが生じる。
7年ほど前に、近くのカフェで知り合った年上の女性は、かつて別の町で喫茶店を開いていた。
そこにはわたしも8年間住んでいたから、詳しく聞くとすごく近い。
なんと、彼女の喫茶店はわたしがいたマンションの正面にあった。
たしかにそこは喫茶店だった。
わたしも編集者との打ち合わせに一度だけ入ったことがある。
でも彼女はいなかった。
それもそのはず、わたしが住みはじめる数か月前に人に譲ったのだという。
外国に住んでいるある友人とは、まるで毎日いっしょにお茶を飲んでいるかのように、連絡を取りあっている。
チャットをしながらあちらとこちらで御飯を食べたり、おやつを食べたりしているのだ。
彼女とは中高の同級生だったが、在校中はあまり話したことがなかった。
それが卒業後数年経った20代半ばのある日、私鉄電車のなかでばったり会うことになる。
そんなに近くで話すのは初めてで、お互い緊張してしまったのを覚えている。
邂逅はその一度だけ、また話すようになったのはインターネットの普及のおかげだった。
でも、あの車内での一幕がなかったら、この縁は結ばれていたかどうか。
小学校の保護者同士として知り合ったある友人は、親しくなる前に、学校の前で挨拶程度の立ち話をしたことがとても印象に残っていたという。
それはわたしも同じだった。
立ち話なんて当時はいくらでもしていたのに、彼女とのほんの短いやりとりが、特別にくっきりとした輪郭で記憶されていた。
つまり、出会う人とは、どこをどうしても出会うことになっている。
お互いに印がついているのだ。
印を見いだしたときに、意識下ではすべてを了解する。
あ、この人だ。と。
わたしたちは、出会ってから親しく「なった」ように思っているが、ストーリーは出会う前から始まっている。
予告編があるのも当たり前のことだ。