羽生千夜一夜 

羽生さくる 連続ブログエッセイ

忍冬諺唐草②  能ある鷹の爪

母系の遺伝子について話を続けよう。

 

わたしは息子の後に娘を生んだ。

当時3歳半だった息子が彼女につけた名前は、なんとことわざ好きの曽祖母と同じものだった。

わたしはそのときまだ息子にひいおばあちゃんの話をしたことはなかった。

好きなアニメーションに出てくるロボットの名前からつけたのだが、それを選んだこと自体が不思議である。

 

わたしの母にしてみると、早くに亡くした自分の母親の名前が孫について、とてもうれしかったようだ。

祖母は36歳で亡くなっているから、わたしも写真一枚でしか知らない。

 

母系の総まとめをしにきてくれたかのような娘。

小学校5年生のとき、国語の授業の「好きなことわざ」をポスターにするという課題で選んだのは、

 

「能ある鷹は爪かくす」

 

爪を隠してそしらぬ顔で木の枝に羽を休める鷹の絵が描いてある。

余白に「反対の意味のことわざ」として

 

「能ない鷹は爪かくさない」

 

とも書き添えてあった。

 

小学校中学校時代の彼女は、まさに爪を隠して、目立たないようにしていた。

遡って幼稚園の年中組のとき。

わたしが最初の保護者会でバザー委員を引き受けてきた、と話すと彼女はいった。

 

「ママはさいしょから手をまっすぐにあげるでしょ、それがいけないのよ」

 

手はいったん肩のところで止めて、周りを見てから、どうしても誰もいなかったら伸ばせばいい、のだとか。

最初からまっすぐ挙げたら、挙げようかな、と思っていた人がほっとしてやめてしまう、とも諭された。

 

これはまさに「能ある鷹は爪かくす」。

わたしの行動は「能ない鷹は爪かくさない」ということか。

どうりで、出る杭は打たれまくっていた人生だったことよ。

 

「能ある鷹は爪かくす」を座右の銘にしている人は、自分の「能」に対して自信があるのに違いない。

「ある」と認識しているからこそ「かくす」わけで。

いっぽう「能ない鷹は爪かくさない」人も、自分の「能」にはなんとなく自信がある。

だから「かくさない」。

しかし、隠さなかったことで「能」の鷹、じゃなくて高、が人に知られてしまい、結果として「能はなかったね」ということになる。

 

 

まさに、隠せば能、秘すれば花

人にやすやすと、自分の能を値踏みさせてはいけない、のか。

それもほんとに、知らなかったなあ。

あるものはすべて出して、人のために使おうっていう考え方だったから。

ミッションスクール気質は自分のためにはならないことが多い…

 

 

写真は先日そのミッションスクール時代のともだちとの飲み会で出てきた鷹の爪。

わたしたちがこれまでに出しすぎた鷹の爪、だったのかな。

 

 

 

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忍冬諺唐草① 母系の遺伝子

母の母という人は、なにかにつけてことわざで娘たちを諭していたらしい。

長女の母は利発なこどもで、当然のごとくことわざをたくさん覚えて育った。

その上に10代から粋筋の大人と接することが多かったり、自らもその世界にしばらく身を置いたりしたために、慣用句や地口や粋な言い回しのデータベースみたいな人になった。

ゆえにわたしは物心つく前から、めったやたらと引用の多い会話に慣らされることになったのだった。

たとえば、麻雀を打つとき。

母はわたしには意味不明のセリフをぽんぽん口にした。

「参った魚は目でわかる」

「そこが素人の赤坂見附

「下手な考え休むに似たり」

「さんざん苦労して振り込む」

そう、わたしは銀行でそれをするよりずっと前に麻雀で「振り込む」ことを知っていた。

それがどんなにがっかりすることかも。

「そこが素人の浅はかさ」の洒落だったなんて、赤坂見附で何回乗り換えても気がつかなかった。

気がついたいまでも赤坂見附といえば「素人だな」と反射的に思ってしまうし。

まさしく「マザータング」というのはことほどさようにこどもに影響を与えるものなのだ。

ただでさえ、言葉に特別に興味を持つこどもだったわたしは、ことわざや慣用句、洒落の類に耽溺するようになった。

小学校2年生のときには、あまりに駄洒落を連発するので、1回10円の罰金を課せられたほどだった。

同音異義語やどこかが重なっている言葉同士がほんとうに好きだったのだ。

同じ音で違う意味の言葉があり、人々はその区別をつけて理解することができるというのが面白くてしかたなかった。

その澄まし顔の理解を駄洒落で突き崩すのもまた面白い。

ことわざは数を覚えて母を凌駕したかった。

三代目の情熱というべきか。

ことわざ辞典を買ってもらって、熟読して覚えこんだものだ。

中学の終わり頃、筒井康隆の小説にどっぷりとはまり込んで、他のものを一切読まなかった時期があった。

題名をいまは思い出せないのだけれど、ことわざを片っ端からパロディしていく作品があり、これだ、わたしはこういうことがしたかったんだ、と目を見開いた。

駄洒落よりハイブラウな感じがするパロディというものをはっきり意識したのもこのときだった。

小説を読み終えると、すぐさま自分でも作り始めた。

ことわざ辞典はフル回転。

「河童の質流れ」

「色の白いは一難去ってまた一難」

「覆水盆がはよくりゃはよ戻る」

「寄らば大樹の陰で斬るぞ」

「千里の道も五十歩百歩」

たぶん15個はできたと思う。

一度なぞなぞを送ったら載せてくれた週刊誌の編集部宛てに送った。

担当者は変わっていたが、彼も面白がって、1ページで特集するという。

自ら解釈と鑑賞を書いたり、類義のことわざとして「覆水盆ぎり盆ぎり」を作ったりして楽しんでいた。

読者にも好評だったらしく第3弾まで求められたが、さすがにネタ切れになった。

無理に作っても面白くないからしかたない。

偉そうな中3だったが、これがわたしの文筆業事始めになったのだった。

いまでも、ことわざや格言のようなものが好きでたまらない。

もちろん、原義は尊重するけれども、大切なのはわたしにとっての意味である。

いわば、いろはがるたよろしく、しっかりした厚紙の札に読みやすい字で書かれていて絵札もあるような、堂々たることわざや格言に裏の意味を書き込む楽しさ。

ここでまた少し書いてみようかと思う。

 

 

前後左右上下

ある男性が、外国人のともだちに、きみの国の言葉では「前後、左右、上下」はどういうんだい、と聞いたときのお話。

ともだちは「マエウシロヒダリミギウエシタッ」とでもいうように、それらの言葉をひと並べに早口で教えてくれたのだとか。

いちおう身振りは入れながらだったけど、そんなのいっぺんに覚えられない。

 

わたしだっても当然覚えられない。

英語ですらそうすらすらとは出てこないだろう。

でもこの話を聞いて、わたしは別方向にいろいろと考えた。

外国語習得の問題ではなくて、自分にとってのまさしく方向というものを。

 

方向音痴なのは小学校2年のときに、方位を勉強する日に学校を休んだからに相違ないが、前後左右上下、ならば、左右でちょっとまごつくくらいだ。

鏡で逆なのは左右ではなくて前後である、なんていう話は大好き。

そうよねえ、前後が逆でなかったら鏡を見たら後ろ姿が映ってしまうもの。

鏡の国に飛び込むときは前に飛び込んでいるようでいて、じつは後ろに飛び込んでいるのね。

こういうおしゃべりはいくらでも続けられる。

文科系特有の思い込み科学。

 

それよりもう少し真面目に。

自分の前後左右上下は、生まれてこのかた一度も変わっていない。

最初に意識したのは、前後だったろうか、左右だったか、上下か。

母がいるほう、おっぱいのあるほう、だから前かな。

生後30日くらいで布団に寝かされていて、頭の上のほうから射してくる日の光に顔を向けている写真がある。

 

寝ているときには自分の「上」は写真で見ると「左」だったりするが、やはりそれは自分には「上」だ。

自分の前後左右上下は、姿勢や体の向きとは関係がない。

自分にとってゆるぎない「方向」なのだ。

それはわたしが体のなかにあって意識を持っている限り続くもの。

 

では、それを「指差す」ときの中心点はどこだろう。

自分のなかのどこから見て「前後左右上下」を指し示しているのだろう。

目を閉じて、探ってみる。

脳のまんなか、ではない。

眉間でもないし、喉でもない。

(チャクラで見ている感じだな)

おなかより下でもなさそうだ。

腕が生えている高さよりちょっと下、の真ん中。

心臓みたいだ。

ハートね。

 

感じてみたらわかった。

眉間あたりでも判断できるのだけれど、これは地図を見るときに使う場所でたいていまちがう。

方向音痴の宿る「チャクラ」みたいだ。

地図を見るときにもハートで読むと正しい道をゆけるかも知れない。

象徴的だなあ。

 

そしてこの中心点から見た方向は、すべてが同時に存在する。

前後左右上下の矢印を無数にずらして点でぎっしり、内側から球が描ける。

実際には点(矢印の断面)には面積がないから方向は無限だ。

無限の方向が同時にいちどきに存在する。

 

ここで、思い出してください、外国人のともだちの方向の教えかたを。

「マエウシロヒダリミギウエシタッ」はどこまで早口にいってもいい。

それらは同時にあるものだから。

できることなら「ウォッ」と重ねて一音ですべての方向を表したいくらいだ。

その「ウォッ」は、人が内側から描く球を示している。

 

レオナルド・ダ・ヴィンチの描いた円のなかの人体図。

あれには正方形も重なっていて、わたしがイメージしていることとは意味が違うのだけれど、あの男性を三次元に表したとしたら、球に包まれているようにならないだろうか。

 

人の存在は、球なのだ。

見かけのでこぼこ、老若男女を拭いさってみたら、ハートから無数の方向を指し示してその照射で内側から球を描いているのが人というもの、みな等しなみに。

 

なんだかあさっての方角に進んでしまった。

そして、この人の球は、天球と同心だというのが結論なのだけれど、きょうはもうこれ以上書けません、頭つかれた。

 

 

ゆるすこと

母とホームで会ってくると、しばらく落ち込んでしまう。

クリスマスから新年。

内側で沈んでいた。

 

前回書いたように、無力ということもある。

4年間の介護のなかでは、認知症状への対応がやっと。

ほんとうの原因を突き止めることができなかった。

悔しい思いが振りきれない。

 

それとは別に、母とはこどもの頃から葛藤が続いていた。

介護することに抵抗があった。

認知症状が出たからといって、一人しかいないこどもだからといって、なぜ。

 

母の過去の言動をゆるすことはどうしてもできなかった。

もしゆるしたら、苦しんできた自分は置き去りになってしまう。

その思いは、母が入院して離れてからも変わらなかった。

 

それでも、この10日足らず、落ち込んでいた間に、一つわかったことがあった。

ゆるすことが難しいのは、これまでゆるせずにいた自分をゆるさないことから始まるように思うからだ。

 

意味の通る会話もできなくなるに至ってまで、母をゆるせずにいる自分。

その自分を責めて、もうゆるさなければ「いけない」と考える自分。

 

そうではなくて、ゆるせなかった自分をゆるすことから始めたら、どうなのだろうか。

母よりも誰よりも、かたくなに母に「謝れ」と思いつづけてきた自分を。

 

じつは、それだけでいいのかも知れない。

わたしがわたし自身をゆるすことができればそれだけで。

クリスマスに母を見舞って

母が入居した特別養護老人ホームは多摩の西部にある。

最寄りのJRの駅からはバス。

道沿いに、同種の施設がいくつも並ぶ。

広い敷地を確保できる地域だったのだろうか。

 

停留所から少し戻って信号を渡り、施設への道を曲がるとすぐに橋がかかっている。

欄干にトウキョウサンショウウオの絵が描かれている。

下の流れに生息しているらしい。

橋を渡りきって左に折れるとホームへのスロープだ。

左手は山裾の雑木林で、ホームは右手に、山を背にして建っている。

 

わたしの住まいから、距離としてはさほど遠くはないのだけれど、乗り継ぎに時間がかかるため、ホームが見えると、やっと着いた、と思う。

受付で職員に挨拶をして、面会票を書き、エレベーターに乗って二階へ。

 

母はいつも食堂にいる。

車椅子に座って、テーブルの前に。

きのうはおやつの時間の頃にいったのだけれど、コップに入ったミルクは手つかずのまま。

わたしを見ると、とてもよく知った人を見た、という表情で、あらあ、きたの、という。

 

わたしは、テーブルの上に、持っていった花を置くが、母が反応するまでの時間がだんだん長くなっているのがわかる。

きれいねえ、という言葉は出るが、その前後は、意味が分からない。

明瞭な声ではきはきしゃべり、わたしの反応を待っているのがわかるが、どこをとらえてなんといえばいいか、言葉に窮する。

 

母のテーブルには、同年輩の女性と、男性もいる。

席は決まっているようだ。

離れたところから声を掛けてくる女性もいつも同じ席。

平日の昼間ということもあって、他には見舞客はいない。

40人くらいの人たちを、一人で見舞っているような錯覚に陥る。

 

帰りのバス2本分の時間、座っているのがやっとだ。

バスの時間だから帰るね、またくるね、というと、母は、そう、気をつけてね、という。

そこはまた意味が通じる。

 

エレベーターの前に立ち、介護士さんの手が空くのを待つ。

エレベーターの扉には鍵がかかっていて、鍵の入れ物は高いところ磁石でつけてあるのだ。

扉が開いて、振り返って母のほうを見る。

きのうはこちらを見ていなかった。

介護士さんに「よろしくお願いします」とお辞儀してエレベーターに乗る。

 

受付でまた挨拶をして、鈴のついた内側のドアを開けて、スリッパを靴に履き替え、もう一つのドアを開けて、外に出る。

停留所でバスを待つ。

最寄り駅から電車に乗る。

 

座席に座ったとたんに、疲労がやってくる。

いつも、最初の電車に乗ったときに。

緊張がほどけるからか、もう帰れるという安堵か、またすぐに帰ってきてしまったという負い目か。

 

きょう、遅い朝のベッドのなかでわかったことがある。

無力を感じるための疲れなのだと。

頭では、母の状態はこういう「段階」であって、誰かがどうにかしたからでも、どうにかしなかったからでもない、わたしもできるだけのことはしてきた、と納得しているはずなのだけれど、実際に母に会うと、ただ痛ましい。

そんな様子は、もう見せないで欲しい、と叫びたくなる。

 

しかし、けさは、こうも思った。

母も、食堂に集っている他の人たちも、きょうという日を生きている。

母は、リハビリの療法士さんに向かって「わたし生きてる?」と聞いたそうだ。

動かないでいると、生きているかどうかわからないのだと。

 

母たちが生きていて、わたしたちも生きている。

その日々を重ねていくこと。

わたしたちみんなで、できること。

 

 

knitting fantasy

編み物の醍醐味は、自分の手元で次元が変わることにある。

 

毛糸は一次元

正しくは、毛糸も立体だし、この世界にあるものだから三次元なのだけれど、ここは比喩として一次元

 

それを自分の手で針に掛けて、からめたり引き抜いたりする作業を繰り返すことで、二次元の編み地になる。

 

マフラーやストールならば二次元でできあがりだけれど、帽子だったら最初から輪にして編んだり、円から半球に仕上げていったりするので、編むほどに三次元のものが現れてくる。

また、ベストやセーターならば、別々に編んだ二次元の身頃や袖を、互いにはぐことで三次元になっていく。

 

あ、まちがえたー、とほどけば、どこからでも、またもとの一次元の毛糸だ。

あーあ、とため息をつきながら、ほどいた毛糸を三次元の毛糸玉に巻いたりもする。

 

編むには時間がかかるから、編み地には時間も編み込まれているといってよく、そうなるとできあがったものは四次元作品か。

時をかける編み物。

 

じっさい、去年編んだ帽子を今年出してまたかぶるときなどには、編んだときの時間がふんわり戻ってくるような気がする。

 

つまり、編み物って、かなりSFなのだ。

そんなところも好きなゆえん。

冬至に

冬至のけさ。

朝日を見ようと、きわめて珍しく早起きしてみた。

部屋着にセーターとコートを着て、誰にも会わないことを願って素顔に帽子をかぶって。

 

しかし、早起きしたことがないから知らなかった。

アパートを出たところはガレージが左右にあって、空が開けているのだけれど、稜線は家々にさえぎられ、朝日を見るまでには当分時間がかかることを。

 

日の出の時間。

屋根の際が明るくなっていく。

「やうやう白くなりゆく山際、少し明かりて」

と思い出すものの、あれは春だった。

 

しばらくのち。

家の高さから考えて、もう朝日はすっかり上がっただろうと思いなし、それからは散歩に切り替えた。

それほど寒くはなくて、空気は清々しい。

早起きっていいものだ。

素直に思えた。

 

自転車に追い越され、男性とすれ違い、女性ともすれ違った。

部屋に戻ってから、その三人のことをなにか親しく思い出した。

彼らは冬至だから早く出てきたわけではなくて、いつもの時間帯なのだろう。

 

あしたからは日がだんだんと長くなる。

寒さに向かうのに、日は長くなっていく。

そのことがうれしくて、つまり、きょうはわたしにとっては一年でいちばんうれしい日。

 

そして今夜は一年でいちばん長い夜。

知るかぎりの人たちの、温かなひとときを祈って。