羽生千夜一夜 

羽生さくる 連続ブログエッセイ

忍冬諺唐草① 母系の遺伝子

母の母という人は、なにかにつけてことわざで娘たちを諭していたらしい。

長女の母は利発なこどもで、当然のごとくことわざをたくさん覚えて育った。

その上に10代から粋筋の大人と接することが多かったり、自らもその世界にしばらく身を置いたりしたために、慣用句や地口や粋な言い回しのデータベースみたいな人になった。

ゆえにわたしは物心つく前から、めったやたらと引用の多い会話に慣らされることになったのだった。

たとえば、麻雀を打つとき。

母はわたしには意味不明のセリフをぽんぽん口にした。

「参った魚は目でわかる」

「そこが素人の赤坂見附

「下手な考え休むに似たり」

「さんざん苦労して振り込む」

そう、わたしは銀行でそれをするよりずっと前に麻雀で「振り込む」ことを知っていた。

それがどんなにがっかりすることかも。

「そこが素人の浅はかさ」の洒落だったなんて、赤坂見附で何回乗り換えても気がつかなかった。

気がついたいまでも赤坂見附といえば「素人だな」と反射的に思ってしまうし。

まさしく「マザータング」というのはことほどさようにこどもに影響を与えるものなのだ。

ただでさえ、言葉に特別に興味を持つこどもだったわたしは、ことわざや慣用句、洒落の類に耽溺するようになった。

小学校2年生のときには、あまりに駄洒落を連発するので、1回10円の罰金を課せられたほどだった。

同音異義語やどこかが重なっている言葉同士がほんとうに好きだったのだ。

同じ音で違う意味の言葉があり、人々はその区別をつけて理解することができるというのが面白くてしかたなかった。

その澄まし顔の理解を駄洒落で突き崩すのもまた面白い。

ことわざは数を覚えて母を凌駕したかった。

三代目の情熱というべきか。

ことわざ辞典を買ってもらって、熟読して覚えこんだものだ。

中学の終わり頃、筒井康隆の小説にどっぷりとはまり込んで、他のものを一切読まなかった時期があった。

題名をいまは思い出せないのだけれど、ことわざを片っ端からパロディしていく作品があり、これだ、わたしはこういうことがしたかったんだ、と目を見開いた。

駄洒落よりハイブラウな感じがするパロディというものをはっきり意識したのもこのときだった。

小説を読み終えると、すぐさま自分でも作り始めた。

ことわざ辞典はフル回転。

「河童の質流れ」

「色の白いは一難去ってまた一難」

「覆水盆がはよくりゃはよ戻る」

「寄らば大樹の陰で斬るぞ」

「千里の道も五十歩百歩」

たぶん15個はできたと思う。

一度なぞなぞを送ったら載せてくれた週刊誌の編集部宛てに送った。

担当者は変わっていたが、彼も面白がって、1ページで特集するという。

自ら解釈と鑑賞を書いたり、類義のことわざとして「覆水盆ぎり盆ぎり」を作ったりして楽しんでいた。

読者にも好評だったらしく第3弾まで求められたが、さすがにネタ切れになった。

無理に作っても面白くないからしかたない。

偉そうな中3だったが、これがわたしの文筆業事始めになったのだった。

いまでも、ことわざや格言のようなものが好きでたまらない。

もちろん、原義は尊重するけれども、大切なのはわたしにとっての意味である。

いわば、いろはがるたよろしく、しっかりした厚紙の札に読みやすい字で書かれていて絵札もあるような、堂々たることわざや格言に裏の意味を書き込む楽しさ。

ここでまた少し書いてみようかと思う。