羽生千夜一夜 

羽生さくる 連続ブログエッセイ

マトリョーシカ

今夜は卵子の話。

男性にはちょっと生々しいかも知れないけれど。

 

妊婦検診ではおなかにエコーをかける。

19年前はまだ黒白の点々画面に過ぎなかったが、医師は胎児の内臓も確認していた。

 

「女の子ですね、卵巣があります」

 

うれしいのと驚いたのが同時。

卵巣でわかるなんて。

まだ子宮のなかにいるのにもう卵巣を持っているのね。

 

そして娘が生まれ、19歳まで育った。

まちがいなく、おなかにいたあの子が、大人になりつつある。

 

親亀の背中に子亀をのせて、子亀の背中に孫亀のせて。

こどものころ、演芸番組で見たコミックソングの歌詞を思い出す。

 エコーで見えた娘の卵巣にはすでに卵子のもとになる細胞ができていたわけだ。

 

ということはつまり。

娘になった卵子は、わたしが母のおなかにいたときに、わたしのおなかのなかにすでにあった。

 

女の子を身ごもることは、孫までも身ごもるということなのだ。

母であり祖母である母、娘であり母である娘。

この二人のあいだで、命がつながっていく。

母系とは裁縫でいう、半返し縫いのようなもの。

折りたたみの望遠鏡をひっぱって長くするように伸びていく。

 

小学校に上がったころ、娘が真顔でいったことがある。

自分が女の子を生まないと、おばあちゃん、ママ、自分とつながってきた血がとだえる。

おにいちゃんがいるからいいじゃない、おにいちゃんにもこどもができるかも知れないわよ、というと、娘は首を振った。

おばあちゃんはお人形や袋物を作るのが上手で、ママはお料理が上手で、そういうのをとだえさせてはいけない、というのだ。

それには、自分が女の子が生まなければ、と。

 

こどもながらに、母系というものを意識していたのだろうか。

こどもだから、感覚でわかっていたのかも知れない。

 

わたしの祖母は36歳で亡くなったので、わたしは全く知らない。

知らないが、わたしの命は、祖母の19歳のおなかのなかから始まったのだ。

限りのないマトリョーシカがイメージに浮かんでくる。

女の子のなかに女の子、その女の子のなかに女の子。

 

息子がつけた娘の名前は、わたしの祖母の名前と同じだった。

息子には祖母の名前について話したことはなかった。

祖母がどこかで、曾孫である彼の耳にささやいたのだろうか。