ヤマボウシ
かじりかけのくせに生意気だが、俳句は感情でつくるものだと自分の句を通して理解した。
先週の2回めの吟行で、ヤマボウシの花を詠んだ。
花びらというには、平面的で大きい。
木の花らしい厚みがあって、輪郭がくっきりしている。
ペーパークラフトのようだなと思い、それをどう表現するかを考えた。
すなわち、
樹の神の切り絵巧みに山帽子 郁子(むべ)
そのあと、記録用に撮った写真を見ていたら、ヤマボウシの木版画を持っていたことを思い出した。
部屋に戻って探したが見つからない。
まだ母の家に置いてあるのだった。
版画の作者は品川の友人だが、彼は一昨年、ふいに亡くなった。
それは「ふいに」としかいいようがなかった。
母が泣くのを見たくなくて、わたしはそれを伝えなかった。
後悔はしていないのだけれど、彼にはすまないことをしたと思っていた。
わたし自身も彼を悼むことから逃げていたようで。
吟行で、ヤマボウシを見つけたのは、彼がわたしを呼びとめたからかも知れない。
わたしは実物を見たことがなかったから。
「ほら、これだよ、これがヤマボウシ」
そして、もう一句が生まれた。
降りきたる手紙のごとく山帽子 郁子
前の句は、描写しようという気持ちだけ。
気の利いた表現を探してつくった。
二句めには、彼のこと、わたしのこと、お互いの交流、亡くなったときのこと、母のこと、亡くなってからのことなど、たくさんのことと気持ちがこもっている。
読んだ人に「こと」は伝わらない。
ただ、つくったときの感情は読んだ人の感情に触れていくのではないかと思う。
その人自身に「降りきたる手紙」を思ってくれるならば、本望である。