父の戦 1
8月15日。
きょうから何回か、父から聞いた戦争の話、父が体験した戦争の話を書こうと思う。
80歳になるころ、父は体験を自ら綴りはじめて、自主出版で小さな本を作った。
いまそれは手元にないので、これからの文章はわたしの記憶だけによることになるが。
父は1919年、大正8年の生まれだ。
喧嘩に明け暮れた中学時代から早稲田大学の政経学部に入学、卒業後はセメント会社に勤務していた。
昭和16年に応集、郷里の愛知県から、窓を閉めきって外を見えなくした列車に乗せられて、港に着く。
父にはそこが、以前旅行で訪れた岩国だとわかり、中国大陸にいくのだと悟った。
ひどい船酔いの果てに辿り着いた中国。
黄河が流れ込む海は黄色かったという。
上陸するときには重い雑囊を背負って細い板を渡ったのだが、そこから一人の兵士が落ちて上がってこなかった。
戦死第一号だったそうだ。
すぐに訓練が始まった。
父は成績が最悪の上に、夜中に調理場に忍びこんでお汁粉の鍋を持ち出し、兵舎の戦友たちの水筒に詰めるなどの悪さを働いたため、幹部候補生から落ちこぼれた。
そして入れられたのは、特務機関の訓練所だった。
北京にあった、陸軍中野学校の分校だ。
2年間缶詰めで情報将校になるための教育を受けた。
卒業した日に仲間と市街に出て、麺を食べようと屋台の主人に声を掛けたが、言葉がまるで通じなかったという。
父たちが学んだのはいわゆるマンダリン、宮廷語だったのだ。
そこから一人ずつ中国全土に散らばっていった。
父が配置されたのは中国北部の街。
県の役人になりすまし、大きな屋敷に住んで料理人と使用人を何人も雇っていたという。
その街では、酔っぱらって「女郎屋の天井を二発撃った」のだそうだ。
中国で発砲したのはその二発だけ、という笑い話だが、いま思い出すと笑ってよかったものかどうか。
部下が捕らえた捕虜に聞くと、早稲田大学に留学していたことがあるという。
後輩じゃないか、と逃がしてしまい、屋敷を憲兵隊に囲まれた。
軍法会議に掛けられるところを特務機関長が駆けつけてきて救ってくれたのだとか。
そこで父が集めた情報がどのようなものであったかはわたしは聞いていない。
ただ、何度もいっていたのは、日本が戦争に負けることはずっと前からわかっていた、と。
それを知りながら戦局を見守る気持ちは、想像を絶する。
幹部候補生から落ちこぼれなかった父の戦友たちは、誰一人として日本に帰ることはなかったのだ。