羽生千夜一夜 

羽生さくる 連続ブログエッセイ

添削の秘密

友人に挨拶の文章を見て欲しいという依頼を受けた。
光栄なことと引き受ける。

仕事として添削をするときにもそうなのだけれど、こう書いてみたらよりわかりやすいのではないだろうかというアイデアの出処が自分でも不思議だ。

ただ、それがよいと思う、と言葉のほうから出てくる。
「思って」いるのはわたしではなくて言葉だ。

自分が文章を書くときにはほとんど意識下で言葉を選んでいて、それが出てくるから手で追って書いているのだが、他の人が書いた文章を検討するときにも、半ば自分の「頭」は使っていないようなのだ。

言葉には自分自身のすんなりした姿がわかっているから、そのまま出ていきたい。
「頭」が考えてそれを邪魔するとスタイルにどこか節のようなものができてしまう。
ほんとにやめて欲しいのよね、と言葉はいっている。

書いている人がたとえば友人ならば、その人自身のすっきりした様子を思いながら読む。
わたしの言葉がすんなりする加減とその人のは違うから、その違いかたを意識する。
そうすると、言葉のほうから、こう出ていきたい、という声が上がってくるのだ。

その声を聞き取って、本人に提案してみる。
気に入ったら採用してね、という形で。
仕事の添削でもそれは変わらない。

なぜ、この提案をするかの説明もつけるが、それはじつは後付けのようなもので、説明してみて、ああ、言葉はこう考えていたのか、とわたし自身も思ったりする。

こういうことを書こう、と発想するのはこのわたしだから、と強いこともいってみるが、それも言葉が出ていきたいからわたしにそう錯覚させているのかも知れない。

つまり、言葉は言葉それ自身であって、誰のものでもない。
だからこそ、書いた人と読む人を結びつけるのだ。

添削も、自分の文章も、またインタビューして書き起こす談話も、わたしにとっては変わらない。
わたしは、いわば映写機であり、映写技師のようなものだ。
言葉のすらりとした姿を写しだすことが、いちばんの喜びである。