羽生千夜一夜 

羽生さくる 連続ブログエッセイ

fragile but unbreakable

「恋のためらい/フランキーとジョニー」(1991年・アメリカ)の、あるシーンを思い出している。

 

ニューヨークのダイナーのウエイトレス、フランキーは、刑務所から出てきたばかりのコックのジョニーに、熱く愛されてとまどう。

以前に同棲していた男性に暴力を受けたことに原因があった。

めげないジョニーに心がゆらいで、フランキーはうなじに残る傷跡を見せる。

男性にベルトで殴られたのだと。

ジョニーはそこにくちづけし、いま消えたよ、という。

 

わたしは、見るたびに、そこでフランキーといっしょに涙していたものだった。

いまは少し違う気持ちで、そのシーンをなぞっている。

 

殴る男性は実在していて、事実があって、傷も残った。

心のほうの傷はまだ開いていて、血が流れている。

殴られた女性は、その二つの傷とともに生きている。

 

しかし、それはほんとうに、そうなのだろうか。

体に傷跡はあっても、心に傷は、ついたのだろうか。

 

恐ろしかった、悲しかった、悔しかった、みじめだった。

いくつもの感情にさらわれて苦しんだことだろう。

怯えて過ごす時間は闇に覆われていたことだろう。

声にならない叫びに、自ら耳を覆ったに違いない。

 

でも、その人自身を、相手が傷つけることができただろうか。

心を、そのさらに内側の魂を、暴力で損なうことができただろうか。

 

わたしの心は傷ついていない、と思い直せたら。

魂の輝きは、少しも曇っていない、と気づけたら。

 

傷はついていないよ。

そういう人がもし現れたら、その人はほんとうのことをいってくれている。

理解されていないと悲しんだり、がっかりしたりするのは早とちりだ。

傷は僕には見えないよ。

うなじを見て、そういってくれる「ジョニー」もいるのだ。

 

体は傷つきやすい。

守りきれないこともある。

しかし、あなた自身は、壊れることはないし、ほんのかすり傷を受けることだって、けしてない。

 

顔を上げて。

愛されていることを信じて。

かわいくなるまで待って

前世紀の話になるが、こういうタイトルの恋愛エッセイを出版したことがある。

『かわいくなるまで待って』(大和書房)

 

パロディ好きのわたしのこと、このタイトルもオードリー・ヘップバーン主演の映画の『暗くなるまで待って』のもじり。

いま思い出したのだけれど、出版前に男性読者の多い週刊誌で同じタイトルの連載もしていた。

 

当時わたしは30でこぼこ。

「かわいい」を内面にだんだんに移行させなければならない年頃だった。

本の内容も、ひとことでいって「かわいげ」を大切にしようというものだ。

かわいげ、すなわち心のかわいさである。

 

それから幾星霜。

二児の母となり、どうやら育てあげた。

そうなったら、トラック2周めに入ったというか、臆面がなくなったというか。

見た目のかわいさは自分のなかで最重要課題となっている。

メイクアップの色味もアクセサリーも、服も靴も持ち物も「かわいい」要素抜きには選ばない。

 

いわゆる「かわいいおばあちゃんになりたい」というのはナンセンスだと二十代から思っていた。

そこに到達するまでの数十年の、毎日こそが大事ではないかと。

女性と生まれて「かわいくなくていい日」なんてない。

いつかかわいいおばああちゃんになれればいいってことではない。

 

「大人かわいい」の「大人」も余計だ。

「かわいい」は「かわいい」。

純なものだ。

少女時代に自ら獲得した「かわいい」センスをころさないこと。

かわいさはとぎれることのない乙女の意識だ。

 

かわいさは、こどもっぽさとは異なっている。

少女はおませに背伸びする。

そのつま先立ちが「かわいい」の核心だ。

 

銀座のあづま通りにあった清月堂ライクスのクリームソーダは、シトロンの、明るいだいだい色のソーダに、黄みがかったバニラアイスクリームが浮かんでいた。

二つが溶けあっていくときの色合いがたまらなく好きだった。

そのあわいにストローの先を合わせ、背筋を伸ばして首も伸ばしてもう片方の先をくわえる。

わたしの「かわいい」はその感じ。

永久に不滅です。

 

一皿の縁起

先週、かつてのクラスメイトと新宿のガレットの店で食事をした。

ガレットというのは、フランスのブルターニュ地方で作られる蕎麦粉のクレープ。

ホットケーキ、パンケーキ、ワッフルのようなものが好きなわたしの、比較的新しいレパートリーだ。

 

なぜきょうこのお店を選んだかをクラスメイトに説明していたら、ずいぶんな昔まで遡った。

前にも別のクラスメイトときたことがあるが、地元のいきつけだったイタリアンの店長さんがここの表参道店に転職し、より親しみを覚えるようになったから。

 

地元のイタリアンを贔屓にしたのは、高田馬場にある本店によくいっていたのが、なぜかわたしの住む街にいきなり支店を出して自分が呼んだんじゃないかとうれしかったから。

 

高田馬場の本店には息子がおなかにいるときに、落合の病院まで検診にいくたび食べにいっていた。

臨月でおなかが流線型になっても構わず通ったものだ。

そのお店を知ったのは、はるか以前。

母はわたしの中学の保護者会で仲よくなったおかあさん方と食事会をしていたが、その第1回がその店だった。

 

そして、ついてきてくれているだろうか、ガレットの店にいっしょにいったのは、中学からのクラスメイトとだった。

人生の五分の四を貫く物語がここで円環する。

一皿のガレットも、縁起に縁取られているわけだ。

 

人生にいきあたりばったりはないのではないかと思う。

と同時に、なにを選んでも、どこにいってなにを食べても、どんなことを経験しても、自由だとも思う。

 

ガレットはおいしく、クラスメイトと和やかな時間を過ごせた。

わたしたちは、どんなときも、大きな幸せのロンドから外れることはないのだ。

 

父の戦 3

少し前に娘と観た日本映画。

「第二次大戦後、特務機関の将校たちが中国から大金を持ち帰って近海に沈めた」という設定だった。

「おじいちゃんも持ち帰ってきてくれてればねえ」と二人で笑った。

 

父が実際に中国から持って帰ってきたのは、二枚の軍用毛布だけだったという。

それは厚地で物がよく、闇市でけっこうな値段で売れたそうだ。

 

中国からの船は真鶴に着いた。

陸地が見えてきたとき、それが緑色だったことに父は涙した。

中国では黄色い大地と岩の山しか見ていなかったから。

 

祖父に迎えられ、父は家業の穀物商を継いだ。

養鶏場から出た鶏糞を北海道に持っていき、帰りには雑穀を仕入れて帰ってくる。

そんな暮らしをしていても、父への占領軍の監視は厳しかったらしい。

中学の友人を何人も失っていたこともつらかったそうだ。

 

当時「アプレゲール」という言葉があった。

戦後に世を拗ねてしまった若者たちをそう呼んだ。

20代の5年間を中国で過ごした父もその一人だったのかも知れない。

 

10年後、父は家業をつぶして東京へ逃れる。

わたしが生まれていよいよ食いつめたとき、父は興信所を始めた。

共同の事務所のなかに机一つと電話一本を借りて。

父が特務機関で身につけたものが、わたしたち親子を生きのびさせたのだ。

 

会社が軌道に乗りはじめたころ、父はある作家の取材を受けた。

自動車会社同士の情報戦を描く作品のためだった。

わたしはあるとき、テレビで、偶然にその作品を映画化したものを見た。

 

「特務機関上がりの興信所所長」が出てきたかと思ったら、机の引き出しから軍隊時代の拳銃を取り出して発砲、そのうち自分が撃たれてしまうのだった。

俳優はおじいさんに近いようなおじさんで、口髭など生やし、父とはぜんぜん似ていなかった。

だいいち、父が拳銃を撃ったのは中国の遊郭で、それも天井に二発だけだったのだから。

父の戦 2

戦争は終わったが、父はすぐには帰国できなかった。

ひどいインフレーションが起こり、二つのトランクに足でお札を詰め込んで、上海に向かった。

そこで時機を待つことになる。

 

上海の租界のホテルに滞在していたらしい。

日本人も少なくなかった。

演奏家の夫妻と親しく過ごしたり、酒場の日本人女性とも馴染みになった。

 

帰れる見通しが立ってきたころ、父は酒場の女性に、いっしょに帰らないか、と持ちかけた。

夫婦を装えば出国できるだろうといったのだ。

女性は迷うことなく断ったという。

わたしたちに帰るところはないから、と。

 

彼女のような日本人女性は租界に何人もいた。

みな上海に残ったのだそうだ。

父は自分の本のなかで彼女らを「大和撫子」と書いていた。

 

それはロマンティックに過ぎるようにわたしは思った。

なぜ彼女たちは上海に渡り、なぜ帰らなかったか。

心情を想像するには余りある。

 

昭和22年、28歳の父は帰国の途についた。

 

父の戦 1

8月15日。

きょうから何回か、父から聞いた戦争の話、父が体験した戦争の話を書こうと思う。

 

80歳になるころ、父は体験を自ら綴りはじめて、自主出版で小さな本を作った。

いまそれは手元にないので、これからの文章はわたしの記憶だけによることになるが。

 

父は1919年、大正8年の生まれだ。

喧嘩に明け暮れた中学時代から早稲田大学政経学部に入学、卒業後はセメント会社に勤務していた。

昭和16年に応集、郷里の愛知県から、窓を閉めきって外を見えなくした列車に乗せられて、港に着く。

父にはそこが、以前旅行で訪れた岩国だとわかり、中国大陸にいくのだと悟った。

ひどい船酔いの果てに辿り着いた中国。

黄河が流れ込む海は黄色かったという。

上陸するときには重い雑囊を背負って細い板を渡ったのだが、そこから一人の兵士が落ちて上がってこなかった。

戦死第一号だったそうだ。

 

すぐに訓練が始まった。

父は成績が最悪の上に、夜中に調理場に忍びこんでお汁粉の鍋を持ち出し、兵舎の戦友たちの水筒に詰めるなどの悪さを働いたため、幹部候補生から落ちこぼれた。

 

そして入れられたのは、特務機関の訓練所だった。

北京にあった、陸軍中野学校の分校だ。

2年間缶詰めで情報将校になるための教育を受けた。

卒業した日に仲間と市街に出て、麺を食べようと屋台の主人に声を掛けたが、言葉がまるで通じなかったという。

父たちが学んだのはいわゆるマンダリン、宮廷語だったのだ。

 

そこから一人ずつ中国全土に散らばっていった。

父が配置されたのは中国北部の街。

県の役人になりすまし、大きな屋敷に住んで料理人と使用人を何人も雇っていたという。

 

その街では、酔っぱらって「女郎屋の天井を二発撃った」のだそうだ。

中国で発砲したのはその二発だけ、という笑い話だが、いま思い出すと笑ってよかったものかどうか。

部下が捕らえた捕虜に聞くと、早稲田大学に留学していたことがあるという。

後輩じゃないか、と逃がしてしまい、屋敷を憲兵隊に囲まれた。

軍法会議に掛けられるところを特務機関長が駆けつけてきて救ってくれたのだとか。

 

そこで父が集めた情報がどのようなものであったかはわたしは聞いていない。

ただ、何度もいっていたのは、日本が戦争に負けることはずっと前からわかっていた、と。

それを知りながら戦局を見守る気持ちは、想像を絶する。

 

幹部候補生から落ちこぼれなかった父の戦友たちは、誰一人として日本に帰ることはなかったのだ。

カップホルダー問題

きょうの映画鑑賞では、前の人の座高問題はほぼクリアできていた。

左前の人がちょっとかすり気味だったけれど、角刈りに近い髪型だったので、わたしが姿勢を崩さなければスクリーンが欠けることはなかった。

 

その代わりに起こったのは、上映前のカップホルダー問題だった。

 

わたしはかつて迷っていた。

座席の肱置きの先端に用意されているカップホルダー。

座って右か左かどちらに入れたらいいのだろう。

3年ほど前、娘といっしょにいったときに、そう言葉に出してみた。

 

「ふつー右じゃない?」

彼女はあっさりと答えた。

右以外のどこに入れようというのだといいたげに。

 

そうか、そうだね、みんな右手で取りたいもんね。

わたしは納得した。

それまではなんとなく、隣の人が入れていない方に入れていたのだけれど、それからは自信を持って、隣の人がいてもいなくても、右に入れられるようになった。

娘には感謝している。

 

ところがきょう。

ロビーで買ったホットコーヒーのカップを片手に、M11の座席に、人のいない左から入っていったら、M12にはすでに男性がいて、わたしが入れるつもりのホルダーにお水のペットボトルが入っていたのだ。

 

大学生かな、つまり、息子くらいの年格好の男の子だった。

さりげなく、彼の右側を見てみると、右のホルダーは空いている。

さらにすかして見てみると、彼の右隣M13の男性は右に入れていた。

わたしは思った。

M12くんは左利きなのだ。

 

幸い、わたしの左隣M10はまだ人がきていない。

わたしは左のカップホルダーにコーヒーを入れた。

M8とM9はカップルで、予約するときわたしのM11と間を一つ空けて取ったのかも知れない。

このままM10の人がこなければM12くんに動かしてもらう必要はない。

わたしも左側のままいけばいいのだ。

 

それで、コーヒーを飲みはじめたが、まだ熱いカップを左側から取ったり置いたりするのはけっこう難しいものだということがすぐにわかった。

でもね、いいよM12くん。

わたしだって娘に聞くまでは右も左もわからぬ若輩者だったのだ。

ましてきみが左利きというならば(聞いてないけどね)思いっきり左でペットボトルを操作してくれたまえ。

 

上映時間5分前。

係員の説明があって、iPhoneの電源を切っているときに、左の通路に人の気配が。

サラリーマン風の男性が、コーラとポップコーンを持って入ってくる。

ああー、M10きちゃったかー。

わたしはそっとコーヒーを持ち上げた。

M10氏は座りながらコーラをそこに入れる。

 

さて、左にコーラ、右に水ボトル。

わたしはまんなかで熱いコーヒーを持ったまま前を見ている。

わたしは息を二回吸ってから、M12くんに声を掛けた。

 

「あの、ペットボトルを右のホルダーに移していただけますか」

なんかすっごくかわいい声を出しちゃった。

M12くんは、あっ、どうもっ、すみませんっ、と恐縮してすぐに移してくれた。

やっぱり爽やかな青年だった。

 

すぐに場内は暗くなり、予告編が始まった。