羽生千夜一夜 

羽生さくる 連続ブログエッセイ

感覚を包むもの

前回の一人暮らし時代。

銀座の伊東屋で買った贅沢な原稿用紙に、ぺんてるのプラマンというペンでエッセイを書きためていた。

クリーム色の地にグレイの細い罫で横広の枡が引かれていて、明るいブルーのインクがよく合った。

 

その原稿が日の目を見ることはなかったのだけれど、一人暮らしの緊張によって研がれた感覚は、文章を書く上での基本になったと思う。

 

たとえば、部屋を出てドアに鍵を掛けるとき、体の前側はまだ室内の気配を残しているが、背中側には路地のオシロイバナが咲いていて、鍵を掛け終わって体をくるりと回すと、両面がオシロイバナの気に包まれる、というような感覚。

 

体表のすべてを使って、外界を全方位的に感じようとする貪欲さは、いまにも通じている。

こうして書いている正面に白い壁があるが、壁までの距離と表面の感触は額の皮膚で感じられるように思う。

顔の前にはーい、と手を差し出せば、手のひらでも壁を感じる。

 

自分のなかだけのことではあるが、文章を書くときにはこの感覚を使っている。

抽象的なものであっても、理解しようとするときには、距離を計り、感触をみて、みかんを剝いて食べるときのように、割ってみたりもする。

 

書いている文章がこれでいいかどうかは、生理的な好悪で判断していく。

こう書いたら気持ちがわるいから、こういいかえよう、とか、それはどう書こうとしても気持ちよくはならないからやめよう、とか。

気持ちよい文章を書くこと以前に、気持ちわるい文章を書かないことのほうがずっと大切で、それだけでも十分なのだ。

 

いままた一人暮らしをして、前回と違うのは、感覚を納める心を持てたということだろう。

自分を表現することの一つ外側に、愛する気持ちがある。

感覚はさまようことがない。

花を見るような安らぎが、感覚を包んでいる。