小ゑんちゃん
昨夜思いがけず、昭和56年の立川談志師匠のラジオ放送の音源を聴いた。
素顔の師匠によく会っていた頃の声だったから、聴くなり涙がぶわっと出た。
高座は芸の域だが、ラジオはプライベートの会話と変わらない。
いつも心のなかでイメージしている師匠の声としゃべりかたより若くて、いたずらっけを通り越し、かなりワルの感じ。
でも、こうよ、これが師匠よ、とまたおいおい泣くのであった。
聴きおわって、ゆくりなく、師匠とわたしの母との出会いのことを思い出していた。
母は20代の半ば、大井町のグランドキャバレーにホステスとして勤め、一家三人の生計を支えていた。
当時は社交ダンスがブーム。
そのキャバレーには毎晩生バンドが入り、フロアも広かった。
ダンス講師の経験のある母はダンスで指名を取っていたのだそうだ。
そこをいわゆる営業で訪れたのが、小ゑんこと二つ目時代の談志師匠。
当時二十歳そこそこ。
若くて生意気で噺がうまく、大人気。
営業ではタキシードを着て漫談をしていて、母が会ったときもその姿だった。
満員のお客を大笑いさせて出番を終えた「小ゑんちゃん」はトイレにいった。
これも母の説明では、キャバレーのお客はトイレにいくと「里心がつく」。
つまり、トイレにいる間に、家のことを思い出して「そろそろ帰らなくちゃ」と思うのだとか。
だから、ホステスは必ず外で待っていて、出てきたお客におしぼりを手渡すことになっていた。
にっこり笑顔で里心を忘れさせ、また席につかせて飲ませるというわけだ。
母は小ゑんちゃんをトイレの外で待った。
それはホステスとしての習慣でもあったし、人気者をそばで見たいという母のミーハー心でもあっただろう。
出てきた彼は、母が差し出すおしぼりを見ると「よせやい」と照れた。
そして真顔になって「俺にはそんなことしなくていいんだよ」といったのだそうだ。
小ゑんちゃんは、ホステスと芸人の自分を同じ側の人間として見ていたのだと思う。
わたしが知る談志師匠もそういう人だった。
周りの誰にも同じように優しい表情を見せていた。
母が出会ってから20年。
わたしが師匠のファンになり、手紙を書いて、返事をもらい、遊びにおいでと書いてあったのをまっすぐに受けて新宿末広亭の楽屋を訪ねたとき。
師匠はタキシードの上着を脱いで鏡の前に胡座をかいていた。
白のサテンのフリルシャツにブルーのカマーベルト、オフホワイトのスラックス。
その姿は、母がキャバレーで会話したときの師匠と同じだったのではないかと気づいたのは、ずっと後のことだった。