わたしの落語史3
ここからは立川談志師匠の話になる。
談志師匠のファンになったのは大学2年の終わりに落語会で「黄金餅」を聴いたときからだったのだが、それはいつだったか、なぜいったのかを覚えていない。
ファンになってからは落語会に週に1回以上通っていたから落語会にいくことは当たり前だったが、それ以前に落語会にいった理由はなんだったかが思い出せないのだ。
とにかく、その「黄金餅」は、リアルで恐ろしかった。
ブラックユーモア以上で、もうホラーだった。
それもなぜか前から2番めの中央の席にいて、終わったときには体がのけぞって膝が開き、肘掛けにしがみついていた。
歯医者さんの治療椅子でこわばっているような姿勢だ。
家に帰ってもうなされそうで、あまりの怖さに、わたしは談志師匠に手紙を書いた。
おとといここに書いたようなことから始めて「黄金餅」に打ちのめされたことまでを書いた。
便箋で5枚はあったと思う。
ともだちと京都に旅行にいく前の日に書いたのだった。
出発の朝投函し、二泊三日で帰ってきて、マンションのロビーのポストをのぞくと、談志師匠からの返事が届いていた。
あなたの手紙はうれしかった(中略)今月の下席(21日から30日までの寄席)は新宿の末広亭に出ているからよかったら遊びにいらっしゃい、と書いてあった。
天にも昇る心地とはこのこと、わたしは談志師匠からの手紙を一揆の訴状のように捧げ持って、末広亭に駆けつけた。
楽屋口に回り、前座さんに手紙を見せると師匠に取り次いでくれ、わたしはすぐに二階に呼ばれた。
師匠は鏡の前で、タキシードの上着を脱いで、胸にフリルのついたサテンのドレスシャツに白いズボン姿で座っていた。
明るい笑顔で「よくきたね」といわれたことは覚えているが、あとは頭が飛んでしまった。
わたしは20歳で、談志師匠はまだ41歳だった。
この日からわたしには、談志師匠の他に落語家はなく、談志師匠の落語以外に落語はなくなった。
落語会でも寄席でも始めから終わりまで楽しんでいたが、談志師匠の出ない会や寄席にいくことは二度となかった。
完璧な追っかけになったのだ。
まだつづく。