羽生千夜一夜 

羽生さくる 連続ブログエッセイ

初めての別れ

5歳になる少し前まで、立会川のアパートに住んでいた。

四畳半一間で、ガスコンロもトイレも共同。

昭和の中頃の話だけれど、いまの若い人には想像もつかない世界かも知れない。

わたしもモノクロ映画のように思い出している。

 

共同トイレの掃除に通ってきているおばさんがいた。

赤ん坊をおんぶし、わたしより一つ年上の女の子を連れてきた。

赤ん坊も女の子だった。

おばさんはやせていて、赤い縁の眼鏡をかけていた。

女の子とわたしとはなかよしで、おばさんが掃除をしているあいだ、わたしの部屋や裏の物干し場で遊んでいた。

母にカルピスを作ってもらって二人で飲むのもうれしかった。

 

わたしたち家族が引っ越すことになったのは、夏の終わりだった。

物干し場の板塀に二人並んで背中をつけて話しているとき、わたしは切りだした。

「らいしゅうひっこすの」

 

「ほんとう」

「うん」

「いやだあ」

「うん...」

「て、だして」

 

女の子は、おばさんに持たせてもらっているゆでたトウモロコシから実を取りはじめた。

取ってはわたしの手にのせていく。

「これあげるからさあ、ひっこさないでよ」

 

実が増えるときの冷たさはもう感じなくなっていた。

手の上で山になっていたからだ。

トウモロコシはわたしも好きだから、食べたいけれど、引っ越すのは止められない、それもわかっていた。

 

「ごめんね」

「ひっこさないで、ね」

 

板塀は夏の西日に温められていた。

わたしはそこに背中を預けたまま、足を少しずつ前にずらしていった。

乾いた土が、アトムとウランちゃんが甲についた赤いズックの周りに細く盛り上がっていく。

 

トウモロコシは、二人で半分ずつくらいになったと思う。

一粒一粒ゆっくり食べているあいだ、女の子もわたしも話さなかった。

 

引っ越した日は、女の子たちがくる曜日ではなかった。

お別れはできなかった。

トラックには父が乗り、わたしと母は電車で新しい町へ向かうことになった。

 

おばさんが日にちをまちがえるかなにかして、女の子がこないだろうか。

わたしはアパートを出るまで待っていた。

あきらめられず、駅までの道もできるだけゆっくり歩いた。

母に手を強く引かれても、体を重くして、ゆっくり。